けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 カフカ/頭木弘樹訳「絶望名人カフカの人生論」(新潮文庫):絶望の中にも絶望の言葉があるということ。

読んだ。

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

絶望名人カフカの人生論 (新潮文庫)

知り合いとの待ち合わせ時間に本屋で立ち読みして購入。冒頭(カバー絵)を引用してみよう。

すべてお終いのように見えるときでも、まだまだ新しい力が湧き出てくる。それこそ、お前が生きている証なのだ。

どう?宗教チックな甘味に癒やされませんか?俺、まだ行けるってさ。ページをめくって続きの引用。

もし、そういう力が湧いてこないなら、そのときは、すべてお終いだ。もうこれまで。

甘味が苦味になりませんか?俺、だいじょうぶ?なのかしら。
こんな言葉があふれている本です。もうすこし引用してみましょう。

生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない。

私たちが生きていくときの歩みにおいては、さまざまな可能性・選択肢があると思います。ありきたりな言葉ですね。さておき。なにはおいても進んで歩んできたのに、それを振り返ることができない。こんなにも苦しく、そして狂おしい虚しさってありませんよね。

ぼくは、ちゃんと物語ることができません。それどころか、ほとんどものを言うこともできません。物語るときはたいてい、初めて立ち上がって歩こうとする幼児のような気持ちになります。

天下の作家フランツ・カフカたる人物が物語れないなんて、そんなことはないでしょうし、自虐的になってウケを狙うなよと穿って考えたくもなってしまいます。さておき。この言葉はカフカの恋人のフェリーツェという女性への手紙の一部です。立ち上がって歩きたいですね。
−−−
こんなかんじで右ページにカフカの「絶望語録」が採録され、左ページには翻訳者である頭木弘樹さんの解釈が書かれています。チンピラ翻訳者の解釈(言葉)なんていらねえよ!という風に考えてはだめですよ。私と同じになってしまいます。
文庫版翻訳者のあとがきから引用。

二十代のすべてと三十代の前半を闘病に費やし、若い時代をまるまる失ったように感じていましたが、そのときにカフカを読んでいたことが、こうして実を結ぶとは、そのときは思ってもみませんでした。
今の私は、医学の進歩のおかげで、手術をし、治ったとは言えないまでも、かなり普通の生活を送れるようになりました。こうして本を書くこともできるようになりました。
かつての私のように絶望している人の手元に、この本が届けば幸いです。

「絶望名人カフカの人生論」。ふざけた釣り堀チックな書名であるなあと思った人。そして絶望なんかに縁がなくエンジョイしているよ!な人。そんなみなさんも釣られたり、エンジョイの合間に読んでみると絶望して辛い人のことが分かるようになるかもしれません。
ちなみに本書の親本は2011年11月に飛鳥新社より刊行されたもの。2011年。3月11日には東日本大震災の災禍が日本を襲った。翻訳者である頭木弘樹氏は、その時期に本書を刊行することについて危惧を抱いていたとも述べている。
現実の絶望の淵にある人々に、絶望の追い打ちをかけてしまうかもしれないことだ。しかし被災者の方々たちからも好意的な声が寄せられたとのことである。絶望の生活に対しても、文字列が少なからずも(いや少なかったかもしれないが)力を発揮したのかもしれない。
小難しく考えることはやめて読んでみましょうよ!
(本稿以上)