図書館で拾ってきたのを読んだ。
神津恭介最後の事件。まずミステリとしての感想。どうでも良い物語が淡々と進行して終わる。以上。
だが腐っても神津恭介物だ。ミステリ「内」での終局は見事。見事というか美しく、そして哀しく切ない。後述。
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これはいくらなんでも酷いだろうという点を指摘する。本文より引用。
松下研三(注:ワトソン役かつ語り手)は、直感した。もうこれからは、どんなに奇怪な犯罪事件が起こっても、神津恭介は二度と興味を示さなくなるだろう
ミステリ「外」ではあるが物語の幕切れの言葉だ。最後の事件にふさわしい。そして厭世的でもある。
しかし、この厭世感が物語を超えて滲み出てきている気がする。すなわち、メタフィクションのレベルでの疲労困憊だ。
まとめてみる。
作中で布谷昭彦が犠牲者の一人になる。布谷とは何者か?本文より内容咀嚼して引用する。
布谷氏は高校の教員上がり。最初のうちは日本思想史のようなことを研究していた。古代史関係の著書を発表した。一部の出版社が"異色の新説"ということで大々的に宣伝したこともありベストセラー作家的な地位を占めるようになった。
この布谷について、神津が松下に次のように述べる。
君が、布谷昭彦を憎んでいることは、僕も知っているよ。君の作品を"盗作よばわり"したのだからね。
確認すると、上記二つの引用は作中で語られている。しかし、松下は作中の語り手であり、これは著者である高木彬光の言葉と捉えることも可能だ*1。
ここからが複雑。作中の布谷が現実世界、すなわち高木のレベルに存在したとしたらどうなるか?簡単に言うと布谷にモデルが存在したらどうなるか?ここにメタフィクションが生じる。読むと心が暗くなるのを承知で掲げる。
神津恭介氏への挑戦状『邪馬台国の秘密』をめぐって
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamaic51.html
トンデルみたいだが、これは高木の以下の書に対する批判である。
邪馬台国の秘密 新装版 高木彬光コレクション (光文社文庫)
- 作者: 高木彬光
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- 作者: 高木彬光
- 出版社/メーカー: 角川書店
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このあたりの論争というか因縁が疲労困憊の原因ではないだろうか?
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さて、美しく哀しく切ないに戻る。
ネタバレになるが、まず真犯人はどちらか?が確定されない。その上で一人の人物が犯行を記した遺書を残す。その文章が哀切である。そして、その遺書の解釈がさらに哀切である。抜粋引用する。
松下「その遺書にあることは真っ赤な嘘ではないでしょうか?」恭介は、その言葉を聞くと、カッと眼を見開き、すぐに問い返した。「どうして君はそういうことを考えたのだい?」恭介の顔はというと、これまでに誰も見たことがないような険しい表情をしていた。
(太字化引用者)
神津恭介最後の事件である。すなわち「これまで」とは、神津シリーズを通じての「これまで」である。たしかに、最後の事件であり筆者の思い入れが過剰に移入したと考えるのが適当かもしれない。しかし、私はそれ以上の筆圧の迫力を感じた。やや(かなり)乱暴ながらの抜粋引用を続ける。
(どちらの人物が真犯人であるかについて)神津「どちらだったとしても、結果が変わるわけではないし、どちらでもいいじゃないか」松下「知性の要求に背きます」神津「未来のある人たちにとって、納得のいくことが"真相"なのではなかろうか?」
()および太字化引用者
これまで、神津恭介は知性の徒として描かれてきた。それは著者である高木彬光の姿の投影でもあろう*3。この知性の「二人」が、知性ではなく現実そして未来を選択する。
そんな最後の事件。