とりあえず、私のコメントは承認されて、表示されました。当該コメントとは、別の視点で、本エントリを考えてみましょう。
前半部分は、ブログ炎上の話。
少なくとも、コメント欄を承認制にすれば、「炎上」はなくなります。それで困るのはJ−CASTの炎上ネタ? いやもうそれも飽きられているじゃないですか。切込隊長さん十八番の炎上批評もなくなってしまう? あれももういいんじゃないの。
コメント欄にネガコメが殺到して、更にネガコメを呼び寄せてしまうという「炎上」の話ですね。これについては、コメント承認制で対応できそうです。ネガコメ増幅の端緒となるネガコメが阻止されるわけですから。
そして、コメントが表示されないので、炎上しているところに便乗するコメントも物理的に無くなるでしょう。物理的に無くなるというのは、非表示で無くなるということではなく、コメントそのものが無くなるということです。したがって、山のようなコメントを「個人的」に読み、承認の可否を判ずることも必要なくなりますね。
さて、エントリ後半では、小さいけれども大きいコメントの話に移行します。
ブログをやっている人や、始める人にお勧めをまとめておきます。ブログ・クソッタレ撲滅ルールの試案です。
(略)2.コメント欄は承認制にしなさい、イヤなこと言われっぱなしにしないでいてください。
ここでは、論理が破綻しているようです。コメント承認制というシステムを使うならば、ブログの書き手は、少なくとも「コメントを読む」でしょう。承認の可否を決定するために。
そのコメントは、とても「イヤなこと」かもしれませんよね。その時点で、ブログの書き手は、死に至るかもしれない。エントリ前半で触れている人については、「読んだこと」が原因(現在のところ、そのように報道されている)で死に至っている。そう考えると、コメント承認制で、このような事態に対応できるのか、はなはだ疑問です。
そして、コメントの承認可否過程において、ブログの書き手が「否」と判断して、非表示にしたコメント。これに対するブログの書き手の立場は、まさに、
イヤなこと言われっぱなし
な状態じゃないのかな?自分だけで抱えるコメント。これは、コメントを表示することで、そのコメントへの反論コメント、あるいは、「読者に見える舞台で、スルーすること」も出来ると思いますね。
ここで大切なのは、読者に見えるというところ。すなわち、読者に見えないところで「否」と判断した「とてもイヤなこと」に対しては、ブログの書き手一人がイヤなことを背負うことになる最悪の状態になってしまうと思います。
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ところで、エントリで前半で例示している事件について。
という記事を読むと、
「ホームページに『死ね』と書き込みされた」などとつづった遺書を残して自殺した問題で、福岡県警は1日までに遺書が指摘したとみられるホームページを特定し、「死ね」などほぼ指摘通りの内容の書き込みがあることを確認した。
(太字化は引用者)
事件の原因となった言葉は、自分が管理するブログ(のコメント欄)に書き込まれたのではないでしょう。すなわち、「コメント承認制」の論議とは、まったく無関係。finalvent氏は、このことをご存知なのだろうか?
もしも、知っていて、今回の「コメント承認制」の論理を組み立てたのならば、極めて悪質だと思いますね。他人の死を利用しての論理構築だから。