けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 facebookの使い方:いまは無になりたい。


facebookについてべたべた書いていたんだけど、深みにはまってしまった。人間的な意味で。でも、エントリの落とし所が決まっているので変則的に書いてみよう。引用箇所が書こうとしたことをブツ切りにしたもの。
−−−

体制(大勢)に反旗を翻す俺って、カッコいいじゃん。という逃げ道を用意しておいて掲げる旗って何色だろう?

ふざけて書いた面もあるけど、facebookという体制に一石投じるという意気込みでもある。

(私のアカウントには)我ながら悲しい荒野が広がっている。

友達がいないってことね。

私は本名ではないが実名でアカウントを作っている。その理由は、連絡のつかない幼なじみに見つけ出して欲しいから釣り針を垂らしているのである。
私たちの世代における幼少期というのは谷底である。携帯電話はもちろんなかった。「いつでも会えるから」ということで年賀状も細っていった。固定電話もいまでは繋がらない。「いつでも会えるから」というのは幻想だった。

本気で感傷的になっている。

現実世界で電話やメールで連絡できる友人・知人から「ともだちになろう」というリクエストがくる。

この先で深みにはまり、袋小路に入り込んでしまった。

とりあえず(facebook内で)ともだちになっておこう、と考えて立ち止まる。ともだちは現実世界の友人なので、彼・彼女とともだちになると、その先に存在する現実世界のともだちに私が被リンクされてしまうのだ。

わかりにくいので簡単に書こうとした。

友人Fとともだちになると、FにリンクされているX群に私が繋がってしまうのである。この構造がいやなのである。

すこし分かり易くなったかな?

さらにX群の構成員が現実世界で私と交錯した群団員であることが問題なのだ。ぶっちゃけ書くと、私はX群団員たち(全員ではないが)に存在を知られたくないのである。名前を思い出されたくないし、facebookをやっていることも知られたくない。私は「無」になりたいのである。

ここで、まともにエントリが書けなくなった。べつに無になりたいということを書くことに抵抗があったわけではない。問題は、先に書いたように人間的意味における他者理解の齟齬が生じてしまうのが嫌だった。
で、このあとにfacebookはどのような位置付けの交流ツールであるのか?を書こうとしたんだけど、考えをまとめる前に荒野で立ち尽くしてしまったので割愛。
−−−
出先で、頭上に設置されているテレビからCMが流れていて音声だけが聞こえてきた。なかなか終わらない長いCMでなんだろう?と思いながらも、流れる音声に気を惹かれた。
頭上のテレビ画面を見上げてみたらこちらだった。

皮肉ではなく、こういうのがfacebook本来のありかたなのかも知れないなあって思った。