けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 物語へのアリアドネ(試論1):新美南吉「ごん狐」

はてな世界では、文房具のライフハックス、男と女の仮想的機微、あるいはバーに行ったらバーベキューに行ったんだバー!とか魅力的ながら刹那的な記事が盛り上がっていたりしていますね。
でも、たまには親から子供、そして孫たちにまで受け継がれていく物語に接してみようではありませんか。

新美南吉童話集 (岩波文庫)

新美南吉童話集 (岩波文庫)

なお、以下本文では強烈な上から目線の書き方になっていますが許してください。
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とりあえず読め!
青空文庫:新美南吉「ごん狐」
読んでみて、なにか違和感を感じなかっただろうか?いや読まなくても感じなかっただろうか?感じなかった奴は馬鹿だ。物語を読む資格がない。
いや、正直に私の本音を書くと、違和感を感じなかった人々は幸せである。そういう人々こそが、本当に物語を読んでいるということだ。物語の真の読者たりうるだろう。
皮肉ではまったくない。彼ら彼女らは豊穣なる物語世界に生きている。心からそう思う。
さて、違和感は1行目である。冒頭の巨大なフォントである。すなわち、物語の題名である。
「ごん狐」だ。「ごんぎつね」ではない。
みんなは「ごんぎつね」って習っただろう?少なくとも私はそうだ。だが「ごん狐」だ。
「ごん狐」と「ごんぎつね」を比べてみると何かが違うだろ?私たちが大人になって「ごんぎつね」になったのか?子供のころから「ごんぎつね」だったのか?
「ごん狐」である。
次。フーダニイット。すなわち誰かである。物語には誰かがいる。必ずとはいえないにしても誰かいる。そして、この物語の誰なのか?分かりやすく言うと誰が主人公なのか?
主人公。極めて断定的かつ排他的な言葉だ。使い勝手が悪いということもあるので気に入らない。
しかし、今回言及する物語においては「誰か」を「主人公」に読み替えてもおおむね問題は生じない。誰かと主人公の読み替え不可能性については別稿で書く(つもり)。
主人公は誰なのか?
「ごん狐」である。ちなみに作中では「ごん」と表記される。兵十説を取る読者も多数いると思うが、ここでは「ごん」を主人公として考える。その論に従うと、脇は兵十であろう。
−−−
前段が長くなった。引用する。「ごん」のつぶやきだ。

おれが、栗や松たけを持っていってやるのに、そのおれにはお礼をいわないで、神さまにお礼をいうんじゃア、おれは、引き合わないなあ。
(太字化は引用者))

確認。これは物語本文からの引用である。「ごんぎつね」を流し読んだだけの読者は気が付かないかもしれない。そして、流してしまうのは小学生の教科書だろう。
私たちが、教科書に取り上げられた物語を再び手に取ることは稀であると思う。私は夏目漱石「こころ」を再読したことはない。
「ごん」のつぶやきに話を戻す。
これは打算であろう。おれがやってるのにお礼を言わず、ましてや神さまにお礼を言うなんて。ここで、「ごんぎつね」という物語の一般的理解に齟齬が生じる。後述。
しかし、このつぶやきは物語において、極めて重要な一節である。いや、彩りのある一節であると考えた方が良いかもしれない。なぜか?
この短い一節で「ごん」の人物を作り上げているのである。彩り豊かに。たった「神さま」という舞台装置を出現させることによって。
「ごん」を確認する。
身寄りが居ない、子供である、いたずら好きだ。これらは、地文で既述されている。この既述を詩的に再提示しているのが、この「ごん」のつぶやきだ。
−−−
さて。以前、本物語を再読したとき、上記引用文の挿入に疑問を抱いた。「ごん」は私利私欲なくして栗や松たけを持っていっていたのではないか?
なぜ、ここでおれを差し置いて神さまが登場するのであろうか?おれの手柄を神さまが持っていった。引き合わない
私たちは「ごん」の無垢なる姿を観たかったのではないか?あるいは、無垢なる姿を期待したのではないか?「ごんぎつね」は無垢を期待されなければならない物語なのではなかったのか?
「ごん狐」という物語は、「神さま」という舞台装置が存在するがために、私利私欲があり、無垢なき物語に変貌するのだ。幻滅するかもしれない。末尾の文章を掲げる。

「おや」と兵十は、びっくりしてごんに目を落しました。
「ごん、お前まいだったのか。いつも栗をくれたのは」
ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。

うなずいたって構わないじゃないか。身寄りがなく、子供であり、いたずら好きな「ごん」なんだから・・・。
(付記1)
「神さま」については、童話、昔話の舞台設定(という偉そうなものではなく)としてしばしば使われます。いや、使うのではなく登場します。
本稿における「神さま」の解釈は極論、あるいはこじつけに過ぎないかとも思っています。私が長々と書いてきて、本当に述べたかったのは、「いや、彩りのある一節」というくだりです。
(付記2)
「ごん狐」は1932年に発表された。1934年新美は喀血。1943年死去。享年29歳でした。
(参照)
ねとらぼ:小学生が書いた「ごんぎつね」の感想で議論勃発 ごんは撃たれて当たり前?