けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 愛する人の庭に咲く

■黒崎夜話:水たち 2
http://kurosaki-yowa.seesaa.net/article/31645020.html

近くにいる人間と遠くにいる人間、そのどちらも感動させることは難しい

「感動させる」というのは、大袈裟であるが、指摘される事項については、しばらく前から、もやもやとではあるが考えていた。そして、今回の騒動で、極めて深いところで痛感し、実感することになった。

私が、ブログ世界に足を踏み入れた最初期に書いたエントリである。

http://keroyan.exblog.jp/1096523/

この中で、THE BLUE HEARTSの「歩く花」から、歌詞を引用している。

今日からは歩く花
根っこが消えて足が生えて
野に咲かず 山に咲かず 愛する人の庭に咲く

この歌詞に対する思いは、当時も現在も変わらない*1。しかし、現在は、殊更に感傷的であり、歌詞が切々と胸に響く。感傷を避けるならば、「まあ、そんなものなんだろうかね」と、軽口を飛ばして、逃げたくなる。

−−−
THE BLUE HEARTSは、「僕たちを縛りつけて、一人ぼっちにさせようとした全ての大人に感謝します。」という言葉から、必死に逃げようとしていたのではないか?この言葉は、「1985」という、当時は幻の曲と称された曲からの一節である。そして、1st.アルバムのキャッチに使われ、彼らを位置づけた。あるいは、逆説的にではあるが、文字通り、彼らを縛りつけた。

彼らが、「言葉」を必死に払拭しようとした形跡がある。すなわち、「1985」という曲は、メジャーデビュー後、封印された。公開される音源としてはもちろん、ライブのセットリストからもである。客席からは、アンコールの声とともに、「1985」の演奏を促す叫びがこだますることもあったが、彼らは決して歌わなかった。

しかし、膨れ上がっていくファンたちは、上記「言葉」にイメージされる彼らを、必死に追いかけ続け、彼らが大人になることを拒絶する。その結果、彼らは、どうなったか?大人になることを許されないまま、「THE BLUE HEARTS」という怪物的名前から逃げ出すことによって、初めて自由を手に入れた。あるいは、手に入れられなかったのか。

−−−
彼我ではあるが、「近くと遠く」を考える一例になると思っている。同時に、言葉を世界にばら撒く、例えば、ブログを書くということに際して、まず肝に銘じておくべき覚悟かな。実名・匿名を問わず。

付記

「1985」には、他にも封印すべきメッセージがあったと思われる。これは、興行的な意味での封印であったと想像するに難くないが、「チェルノブイリ」を歌った後、封印する理由はなくなり、彼ら自身が封印しようとしたのは、やはり本文で述べた言葉だったのではないかと、私は推測している。

<<参考リンク>>
本文中でリンクしたhttp://keroyan.exblog.jp/1096523/へ続いたエントリ。
http://keroyan.exblog.jp/1083056/
http://keroyan.exblog.jp/1086414/

*1:書いた当時、「その捉え方はちがうのではないかな?」というコメントもいただいたのだが。