けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 本の素顔について

ハックルベリーに会いに行く」というブログがあり、ブログ主はハックルさんと呼ばれていて、ベストセラーとなった「もしドラ」の著者。

さて、この「ハックルベリーに会いに行く」というブログ命は、かのブルーハーツ「1000のバイオリン」の歌詞の一部(フレーズ)が元ネタだ。なんとおこがましい奴だ、と思いながらも、まあ、後期作品からの命名なので、許そう。
これがもし、初期の名曲、たとえば「ドブネズミみたいに美しくなりたい 」、あるいは「チェルノブイリに行きたくねぇ!」というフレーズからブログ名を付けて、現在のハックルさんが、「ドブ」さんとか「チェルノ」さんと呼ばれていたならば、許せないぞ!
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さて、そのハックルさん。久しぶりにクリーンヒットを放ったみたい。
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20111225/1324797973
まず、ハックルさんは、「万物は世界そのものの「所有物」である」という理論を本*1に当てはめて、次のように述べる。

ですから、当たり前ですが、それ*2を破いたり捨てたりしたら、作家のみならず、誰でも、この世界そのものの一員として(一部として)、それを咎め立てすることができます。と言うより、咎め立てするべきです。

それが、「この世界そのものの一員としての責任」なんだってさ。つまんない話だけれども、この人、シュレッダーとか使わないの?小指を切ったりとかしないの?
続けて、「購入した本の使い道は購入者の自由ではありません」なんだってさ。そして、本の読み方まで指図する。自由に読ませてくれよ。
たとえば、夏目漱石の「行人」って、通常、主人公の兄の悩み*3がテーマだと読解されているけれども、主人公と義姉の恋愛譚として読むと面白いし、新しい発見があるんだぜ。

本はむしろ「買った後の使い方まで指示してほしい」という人が買うべきであり、また読むべきものです。だから、佐藤さんはもう本を読まない方がいいと思います。

これだったら、読まない、というか、これ読めないだろ?子どもなんかは、買ってもらった本を、よだれ垂らして、べろべろ舐めながら読んでいるぞ。それだって、立派な読書であり、先々の糧になっていたりする。
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本は書物とも呼ばれて、ご大層な物に祭り上げられているが、少なくとも現在の私たちの生活においては、ただの消費財に過ぎないと思う。たとえば、クソみたいな本が大量に出版されている、っていう枕詞を使ってみてもいい。
そんな私たちの生活を取り巻く本の状況においては、読み終えて、今後、読まないであろう本については、古本屋に売るのも面倒くさいから、棄ててしまう。そんなものだろう。
ハックルさんのような作家先生にとっては、ブックオフなんかで、二次流通するよりも、廃棄されて裁断されてしまう方が嬉しいかな?
本は情報に過ぎないと思う。情報というと誤解があると思うけれども、本に込められた情報から、個人の生き方が変わり、感情に強く作用し、あるいは情念が誘発されたりもする。本は、それらの着火物だと思う。形や器ではないってこと。上記エントリの後半で述べられているマスターピースも同様。
本はそんなものだから、裁断しようと、分厚い本を真っ二つにしようと、
http://keroyan.exblog.jp/2937019/
風呂の中で読みふやふやにしようと、あるいは水桶に漬けてしまっても良いと思う。ちなみに「水桶に漬ける」とは、辞書を水に浸して、ページをめくりやすくするという、少しばかりアンタッチャブルな作業。上手な段取りを取らないと酷いことになってしまう。
もちろん、丁寧に扱う本もある。私の場合、予備校生時代に倉庫みたいな古本場で、10円で購入した「罪と罰」。その後、風邪か何かで病院に行き、その待合室で読み始めて、涙が止まらなくなった「罪と罰」。この本(というか物体)なんかは、今でも大切にしているよ。
ハックルさんは、「本は個人の所有物ではない」っていうけれども、本のありようは、個人の采配にゆだねるべきものだろう。棄てようが、大切にしようが、あるいは食べてしまおうが、自由にさせてくれ。
ほんどこかたのむ!

*1:文脈上は「物」、ただし書き手は「本」を意識しているようだ。

*2:注1を参照。

*3:時代についての悩みとか。