けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 今野敏「疑心−隠蔽捜査3」〜正論の人、惑う

疑心 隠蔽捜査3 (新潮文庫)

疑心 隠蔽捜査3 (新潮文庫)

大人の物語である。そして、仕事の物語である。そして、誤解を恐れずに書くならば、思春期の物語でもある。
主人公は、キャリアの警察官。そして、読者に不快を覚えさせるまでに、正論の人である。嫌味な奴だ。彼は、たとえ周囲の人間が、自らの正論を理解することがなくとも、正論を貫く。
それがたった独りであっても。孤立することをもまったく恐れずに。いや、そこには恐れという感覚すらない。ただ、不思議に思うだけなのである。なぜ、人々は正論を具現化しようとしないのか?ただ不思議に思うだけなのだ。
女性が登場する。精密機械のような彼が彼女に対して思い惑うのである。彼女と目が合うと困惑し、彼女と車中隣り合わせになると、安心と歓喜に包まれる。そして、彼女と一緒にいると何でもできるような気持ちになるのだ。
これは、アダムとイブのたとえを持ち出すまでもなく、甘美な果実であり、虚栄である。そして、彼女は堕天使だ。本シリーズを追いかけてきた読者は苛立ちを覚える。フラストレーションが溜まる。あるいは、嫌味な主人公の堕する姿に、喝采を送るかもしれない。
さて、主人公は、いかにして甘美な果実と虚栄を克服するのだろうか?幸福な家族、中でも魅力的な妻でもない(彼女はまったくもって魅力的である)。禅の公案がトリガーとなる。
題して「婆子焼庵」。老婆が修行中の雲水を試すべく、若い娘を彼に抱きつかせる。雲水が応えて曰く「枯れ木が凍り付いた岩に寄りかかるようなものだ。冬に暖気がないように、私には色情はない」。これを聞いた老婆は、雲水を俗物と罵り、彼を追い出し彼の庵を燃やしてしまう。
正論の人は迷ってしまう。なぜ、色情がないと応える雲水が俗物なのだろうか?修行中の雲水に色情がないということは、正論ではないのだろうか?主人公は迷うのだ。
しかし、彼は迷いながらもこの公案に対して解決を図る。いや解決ではない。解釈によって立ち直るのだ。物事を解決することで生きてきた主人公が、曖昧な解釈の世界に身を投じる。屈辱かもしれない。しかし、そこに確固たる一筋の光明を見出す。
ここに至りて彼は解決する。彼は奈落の底から敢然と立ち上がる。その姿は圧巻である。物語は、ここから始まるといっても過言ではない。始まりの遅い物語でもある。まったく苛立たしくもどかしい物語なのだ。
最後に、主人公の言葉を引用する。

これからキャリアとして、さらに修行を積んでもらわなければならない。

嫌味な言葉である。しかし、キャリアがキャリアとして励むことを諭す正論と捉えることも可能だ。
さて、このエントリの読者におかれては、この言葉を公案に見立て解釈すべく本書を読んで欲しい。おそろしいまでのカタルシスを得られるにちがいない、っていうか泣く。
−−−
と、まあ偉そうに書いたけれども、作中で展開される「婆子焼庵」の解釈は、我が身に突き刺さったよ。こういう生き方もあるんだってね。あ、突き刺さったのは解釈じゃないか・・・。