けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 シェイクスピア「ハムレット」:弱った私に演技を魅せる彼。 

温泉行。
大きな川のほとりで悲しい歌を小さく口ずさみ、帰宿して畳に頬を横たえて小さく涙した。また帰りの電車の中で、持病ともいえるようになった不安感が出て胸うち震えた。独りの部屋に戻り、かろうじて荷解きをした後、寝床に潜り込み惰眠に逃げた。
ろくでもない精神状態、いまだ続いている。
旅先で読んだ。

ハムレット (新潮文庫)

ハムレット (新潮文庫)

読み終えての感想。ずばりつまらぬ物語である。
ハムレットはオフィーリアをほんとうに愛していたのか?なぜ彼女は物語の早い段階で死んでしまうのか?悲恋の物語ならばこの尺割りはおかしいのではないか?そうすると当初の疑問に立ち戻る。ハムレットはオフィーリアをほんとうに愛していたのか?
こう考えて悲恋を捨象して残るのは、亡き父を弑して現国王になった父の弟クローディアスへの復讐のみ。展開はある。すなわちハムレットが狂ったふりをして奇矯な振る舞いを演じてクローディアスやその近親たちを欺き復讐の機会を窺うところ。しかしこれも功を奏していない。
その証拠にクローディアスは早々にハムレットをイギリスに送り、その地での暗殺を計画する。当然のことながら我がハムレットは難を逃れるわけだが、彼をイギリスに島流しにする時点でクローディアスは、ハムレットの狂気を疑っているわけだ。とするとハムレットの狂いの演じはなんだったのか?
最後のレイアティーズとの決闘の場面。ハムレットはクローディアスの罠から逃れる有様は朴訥(あるいは滑稽)でさえある。そしてハムレットの母ガートルードはハムレットのために用意されていた毒杯を飲んで死ぬ。レイアティーズもある種英雄的に死んでしまう。ここに至りてハムレットは、ようやく真相を知るに及ぶ。まるで道化師である。
そこにもちろんハムレットとクローディアスの死も加わるのだが、残るは累々たる屍の山だ。たしかに大いなる悲劇ではある。それにしてなんだか座りが悪すぎる。舞台の大団円にはふさわしいのかもしれないが。
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冒頭の精神状態にある私はこのようにひねくれて読んだ。感情移入ができていないともいえる。
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ただしこの読みは珍しいものではないらしく、訳者の福田氏が詳細に解題している。一部を引用してみる。

ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演技しているということにある。既にハムレットという一個の人物が存在していて、それが自己の内心を語るのではない。まず最初にハムレットは無である。彼の自己は、自己の内心は、全く無である。
ハムレットは自己のために、あるいは自己実現のために、語ったり動いたりはしない。自己に忠実という概念は、ハムレットにもシェイクスピアにもない。あるのはただ語り動きたいという欲望、すなわち演技したいという欲望だけだ。この無目的、無償の欲望はつねに目的を求めている。その目的は復讐である。決して自己実現などという空疎な自慰ではない。欲望の火はそんなものには燃えつかないのだ。
(太赤字化は引用者)

私のひねくれた疑問も少しだけ溶解した。ハムレットの目的は復讐のみである。ハムレットは演技する者である。演技するだけの無である。
そう考えるとこのハムレット劇は二重構造としてとらえなければならない。すなわちハムレットを演技する役者は、演技するハムレットを演じるという、いわば劇中劇ととらえるべきなのかもしれない。
それにしても、内心が無であり、自己実現という空疎な自慰を排して、演技に始まり演技に終わるハムレット。私もそんな風になりたいものだと思っているのは、弱った精神状態故なのか強い欲望なのか?いずれなのだろう。