けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 恣意的なる言説に無意識に取り込まれてしまう貧しさ

改行し杉!という物体的にな読みにくさは置いておいて、良いことを書いているなあ。

http://d.hatena.ne.jp/tamamusi/20120107#1325934819

しかし、先に述べた「良いこと」というのは、きわめて恣意的な捕捉であり、万人が「良いこと」だと首肯することは、ありえない事だ。そして、一個人ですら、「良いこと」だと感じることは、その大部分において、対象(この場合は上記エントリ)への賛同、あるいは共感に発する感情から生まれる。
すなわち、自らが考えていることに、おおよそ他者の言動が我が身に共感を示唆する場合において、私たちは諸手を挙げて賛意を表明する。つまり「良いこと」だと考える、あるいは感じるのだろう。
このことは、知識の蓄積が増大している大人に多く見られることだと思う。純粋無垢なる子どもたちは、貪欲に知識、あるいは思想等を吸収して蓄積していく。なにしろ知識の蓄積がないので、対象に対する恣意的な捕捉が生じる余地がないからだ。
それに対して、大人たちは頑迷固陋なる人間ではないにしても、無意識の層において、自分の知識の強固を示すテクストに対して、無自覚的に共感を示す。いわば確認作業としてテクストに対峙してしまうということだ。
それが、読書に限らず、生活の領域にすら浸透してしまっているのは確かだと思うし、まったく残念なことだと思う。しかし、結局は冒頭に述べた「示威的な捕捉」というものを絶つことは難しい。このあたりは、大脳生理学からも説明可能かな?
しかし、ここまで述べた「思考の硬直性」については、テクストの多面的な読み解き、あるいはコペルニクス発想の転換、あるいはパラダイムの外縁に飛び出すことで、なんとか視野を広げることが可能であることを願う。
そうでもしないと、ずいぶんと狭い思考に彩られた貧しい生活に甘んじてしまうだろうから。と、第三者的に述べてきたが、私自身も蓄積された知識による確認作業という陥穽を避けるべく、日々、生活していかなければならないなあ、と思った次第だよ。