けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 中川右介「第九」(幻冬舎新書):歓喜と鎮魂、そして祈りの歌

先日、読了した。というか、活字を這うようにして読み終えた。

奇書である。
所謂「第九」の受容史を集めて書き記された書なのだが、驚くべきはその調査の緻密さ。ほとんど病的であるとすら思える。そして、その病的な調査を文章にまとめあげて、市井の読者に伝える筆者の力量。いずれにしても、奇書である。
まず、本年、甚大なる災禍をもたらした東日本大震災の場面から始まる。被災当時、ズービン・メーター(指揮者)がフィレンツェの楽団ともに来日していた。しかし、放射能汚染被害を危惧したフィレンツェ市当局が、楽団に対して帰国を命じ、楽団員は帰国してしまう。
メーターは、被災地のために何かをやりたい、と考えて、独り日本に残り日本の楽団等に呼びかけたが、交渉はまとまらず、(おそらく)苦渋の念で帰国した。
その後、NHK交響楽団との交渉がまとまり、彼は、単身、日本に戻って来る。そして、上野東京文化会館で、第九を演じることになった。彼が、舞台に上がる場面。引用してみよう。

メーターがゆっくりと、沈痛な面持ちで登場した。それだけで拍手とブラボーの声が出た。演奏への賛辞ではない。来てくれたことへの感謝の意味の喝采だった。しかし、メーターはにこりともせず、沈痛な表情を崩さなかった。

悲劇の大地に対して、なぜ「歓喜の歌」なのだろうか?同様の事例は他にもある。ナチスホロコーストが行われた収容所で、戦後「第九」が演奏された、というものだ。このときは、拍手も喝采もなかったらしい。これも悲劇の地での「歓喜の歌」である。
このことは、「第九」が「歓喜の歌」であると同時に「鎮魂の歌」でもあると考えざるを得ない。いわば、ある種の言霊思想ととらえても良いだろう。当然のことながら「歓喜の歌」としても歌われる。ベルリンの壁崩壊時の演奏、長野オリンピック開会式での五大陸同時演奏。
さて、本書に記されている数々のエピソードから、もう一つだけ記してみよう。日本における「第九」の初演である。公式には、1924年東京音楽学校の教員、学生によって演奏されたもの、とされている。
しかし、筆者は1918年、第一次大戦中に徳島県の坂東俘虜収容所で、演奏されたものを日本初演ととらえる。この収容所では、俘虜の扱いは比較的寛大で、ドイツ兵の俘虜たちはハムやケチャップ(そしてキャベツの栽培方法も!*1)の作り方を日本人に教えるなど、関係は良好だったという。
少し横道に外れるが、私は以前、他の書物で坂東俘虜収容所(当時は徳島にある収容所くらいの認識)を知った。日本軍に捕らえられたドイツ人兵士たちは、「徳島に行かせてくれ!」と言ったり、服に文字を書き込んでアピールしたそうだ。それだけ、自由な収容所であったとも言える。
さて、そんなドイツ人兵士たちによる演奏である。引用してみよう。

もともと捕虜になったドイツ兵には軍楽隊の者もいた。彼らを中心にして、五つの楽団と二つの合唱団が組織され、さまざまな演奏会が開かれていた。

これらの楽団、合唱団が母体となり1918年、「第九」が演奏されたという。

参加した者はこう証言する。「あれはすごかった。最後は全員の大合唱となり、泣き出す者もいた。祖国に届けとばかり、声をふりしぼった。(略)異国で、それも囚われの身での「第九」だった。(略)世界中の人々が一つになる日がくれば、戦争もなくなる。そんな思いもあったであろう。「第九」は平和を願う曲として奏でられたのだ。

日本初演かどうかなんかは、どうでもよい。彼らの「第九」が、祈りの歌でもあったのだ、という思いが湧き上がってくれば、まったくもってそれだけでよい。
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正直、本書の紹介としては、我ながら、まったく稚拙な書き方、ひどい文章であると思います。したがって、本ブログの読者の皆様におかれては、機会があれば、書店で手に取りじっくりと読んでみてください。
また、「第九」を「歓喜の歌」、「鎮魂の歌」そして「祈りの歌」とカテゴライズしましたが(これも適当であったか分からない)、それらを念頭に、本日(2011年12月31日)の夜20:00から「NHKEテレ東京」で放映される「第九」を聴いてみると、数々の災害に襲われた今年一年を振り返り、「いや、まだまだこれからよ!」と来年に思いを馳せることになるかもしれません。
さて、最後に。今年一年、当ブログをご愛読ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。けろ拝

*1:これは、今後、調べて見なくてはならないな!!