私の近所では、桜の季節も終わり、私が大好きな葉桜新緑の季節に向かおうとしています。花見は、二回ほど参加しましたが、いずれも「花よりナントカ」で、話で盛り上がったり、二回目はBBQも兼ねて、ということだったので、桜さんはどっかに行ってしまっていました。
齢幾年にして、未だ経験したことが無いのですが、やってみたい「花見」。桜吹雪の中、杯に浮かぶ花びらを愛でながら、湯豆腐鍋でもつつきながら、のんびり青空を眺める、みたいなやつですかね?鍋は、今年の花見頃が、結構寒かったことの連想かな。
さて、今、読んでいる小説の中で、面白い一節がありました。引用してみましょう。
そうだ。それは確かに幼い視覚観ではある。けれども人間にとって、やはり<見える>ことと<見る>こととは違う。それは常に同時に起こることだが、前者での視線は物体から眼へ、後者でのそれは眼から物体へと至る。
この辺りのことは、一時期、一所懸命に考えましたね。これは、所謂「眼力(メジカラ)」という酒の肴みたいな言葉からの連想ではなく。
見えることは見えてしまうこと。綺麗な桜が見えてしまうならいざしらず、(報道等を通して)世間の残虐な犯罪とかが見えてしまうこと・・・。生活の中で、見えてしまうことは、思いのほか多いような気がします。
春爛漫。「見える」ことではなく、自発的に「見る」ことを増やしたいと思わせてくれた一節でした。
■追記
男独り花屋に入り、
(´・ω・`)<このバラをください・・・
と店員の姉さんに頼んだところ、「咲き始めのものなんかはいかがですか?これから大きく咲きますよ!」と言われて購入したバラです。で、「見える」分には気が付かなかったのですが、じっくりと「見た」ら、確かに大きく花開いていました。