けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 道義的責任という曖昧なる怖さについて。

舛添東京都知事が辞任しましたね。ちょっと気になることがあるのでメモしておこう。
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行きつけの飲み屋(私は酒を飲まないけど)なんかで人と話すと、必ずといっていいほど辞めて当然という話になる。元来が天邪鬼な私なので「本当にそうなのか?」というクエスチョンが湧き上がる。
そこで考えるのは、名キャッチとなった感のある「法律的には問題ないが道義的な責任がある」という言葉。そう今回の騒動は、利益関係者から違法に金をもらったという贈収賄疑獄じゃない。法律的には問題ないわけなんだよね。
では、一方の道義的責任ってなんなのか?まず彼がやっていたのは、公用車でどっかの別荘に行ったり、なんかの金で家族の旅行に行ったり、なんかの金で絵画を購入したりしていたってこと。他にもあるかも知れないけど騒動をオッカケしてるわけじゃないから知らない。
問題となると思われるのは「なんかの金」のこと。これが政治資金であったり税金であったりする。したがって人々の思いは「税金で家族旅行を楽しみやがって!」「公用車なんてなもんで別荘なんてなとこに行きやがって!」に向かう。これが道義的責任というものだ。
いや、ちょっと待て。
この構図は、人々の思いが道義的責任に昇華されたものだぞ。道義的責任という小難しい思考的用語で思いを飾りあげたものだぞ。これすなわちポピュリズムの萌芽だぞ。
市井の人々の思いを汲むものが政治であることは言を待たない。しかしそれは政治の一面に過ぎないと私は思う。そしてこれが氾濫するとポピュリズムを経て、思考の同一性を帯びて大政翼賛に陷阱する。そのときに何が起こるかを歴史に求めたい。
さて円急騰、株価暴落でアベノミクスが壊れかけている。しかしこんなの壊れて当然だと思う。金をばらまきゃ株価も上がるだろ。円をばらまきゃ円も下がるだろ。それで出来上がったのがアベノミクスとやらだ。
ここに端的にポピュリズムが示されている。
そりゃ懐が潤えばみんな気持ちが良いじゃないか。その出どころが将来へのツケだったとしても、いま楽しければそれでいい。私はそんな刹那的快楽主義が嫌いだ。そしてそれに迎合する政治って恐ろしいと思う。
さておき今回の舛添騒動。参議院選挙も近いことだし政治というものをみんなで考え直す良いきっかけになったんじゃないかな?
(本稿以上)
(参考)
ポピュリズムの一形態、というかその手段として美人投票の当為がある。それについて書いたのがこちら。
けろやん。メモー第47回衆議院選挙:投票行動が死に筋を外す戦いになってきているようなこと。(追記の追記の追記あり)
先月の今頃はこんなことを考えていたらしい。
けろやん。メモーヤフオク考察〜箪笥を購入した。