けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 エンリケ・バリオス「アミ小さな宇宙人」(徳間文庫):愛に向かうことは逃げることだと思う。

読んだ。

アミ小さな宇宙人 (徳間文庫)

アミ小さな宇宙人 (徳間文庫)

はてなトップで紹介されていた本。Amazonでは、200レヴューが輝いている。それらはおおむね好意的なものである。
私が購入したのは表紙絵に惹かれて。そもそも200レヴューの本くらい置いておけよ。図書館。
以下、ナルシスティックな感想文。私をぶん殴りたくなるかもしれない。神の人。愛の人。
−−−
私は、神と愛が嫌いだ。神って偉そうじゃん。愛って偽善的じゃん。
この本は、そんな神と愛の物語である。

(高度に発達した星の住人たちが他の星を侵略しない理由について)「だって爆弾をつくることのほうが、宇宙船や円盤をつくって、ほかの星を侵略するよりも、ずっとかんたんなことだからね。あるていどの科学の水準に達した、でも、やさしさや善意に欠けた文明は、かならずその科学を自滅するほうに使いだすんだよ」
(括弧内は引用者、以下同)

箴言である。力は外部へ向かうのではなく内部へ向かう。しかし私は立ち止まり苛立つ。

やさしさや善意に欠けた文明

立ち止まらずに百歩譲って歩いてみる。この言葉に私が苛立つ理由は、私にやさしさや善意が欠けているからかもしれない。すなわち欠けていることを指摘されたが故の苛立ち。
たしかに私の心の中にそのような機序が存在していることは認めなくければならないだろう。しかし私は苛立ってしまう。

(愛が高度な水準に至った文明においては)「ここには、お金は存在していないよ」「じゃあどうやって、ものを買うの?」「売り買いはしない。もしだれかがなにか必要なものがあったら、行って持ってくる・・・」

引用では誤解されかねないので補足する。ものは共有物であり、私有物ではないがゆえに持ってくるという行為は、強奪の類ではない。また、ものには上記引用にあるような必要なものに限らず、娯楽品も含まれる。
たとえば豪華なヨット。すべての人が豪華なヨットを欲しがる(使いたがる)わけではなく、手漕ぎのボットを欲しがる人もいる。したがって、余剰が発生し各人が欲しいものを手に入れること、いや使うことができるのである。
その「愛」を支えるのはつぎのようなシステムである。

(レストランや山盛りのアイスクリームを指さして)「アミ、ここもほんとうに無料なの?」「もちろん、みんなタダだよ」「でも、そんなに生活が快適なら、どうしてみんなははたらいたりなんかしないで、もっと楽しむことだけしないの?」「じっさいここはほんの少ししか仕事がない。重労働はみな機械やロボットがやってしまうし」

働かなくてもいい世界なのである。レストランが趣味で営まれていることが言外に臭わされている。それはそれで構わない。しかし重労働を担う機械やロボットとはなにか?
それは、愛の水準が低い人々のことではないだろうか?愛が少ないが故に満ち足りた生活を送れない人々。彼ら彼女らが愛ある人を支えているということなのではないだろうか?
もちろん筆者は、そのようなことを意識していないであろう。しかし、彼が示しているのは理想像に過ぎず、そこに私は無意識な悪意を汲み取ってしまう。

「もし生まれてからずっと目が見えずにいたひとが、ある日とつぜん見えるようになったとしたら、目が見えることを、どんなにすばらしいと思うか、想像つくだろう?」

目が見えない人が、目が見えないまま素晴らしさを感じられなかったらどうなのだろうか?
たしかに、すばらしいと思うだろうと想像する、との留保がある。すなわち、目が見えるようになった状況を「想像してみる」とすばらしいと思うだろうという論理である。ここでは、見えないままである可能性を捨象してはいない。
しかし、これは怖ろしい論理である。すなわち、(健康な)他者が目の不自由な人々の素晴らしさを外部から想像するということだ。あまりにも残酷な「観察」ではなかろうか。これは決して「愛」ではない。

「つらくきびしい人生をたえてきたひとが、より人間的な人生を送れるようになったとしたら、そのひとたちがいちばんそれを評価できるだろう。もし夜がなければどうして日の出をよろこぶことができるだろう?」

夜が明ければ日は昇る。しかし、厳しい人生から人間的な人生を送れるようになるとは限らない。厳しい人生のまま幕を閉じる人生も確実に存在する。
人間的な人生を可能にするのは決して自分自身の愛を高度化することだけではない。世界の愛が高度化することが必要だ。それは、自分自身をあきらめることではないだろうか?

「起こらなかった問題やこれからもけっして起こりもしない問題を心配して、頭をなやませて生きていくのをやめて、もっと”いま”というときを楽しむようにしなくちゃ、と言っているんだよ。人生は短いんだ。もし現実に、なにかの問題に直面したときはそれに全力であたって解決すればいいんだ。(略)じっさい起こりもしないことに頭をなやませて、現在を犠牲にしなくてはならないんだい?」

享楽主義である。私たちはさまざまな起こりもしないことを一所懸命に考えて生きている。そして考えるにとどまらず、耐え忍ぶことができるように努力もする。いまを享受するだけで生きていけるなんて考えない。
それは努力の放棄である。努力とはいまの問題に対処するためのものではない。将来を考えて行うことである。それならば「おまえは良い学校に入って良い会社に入る学歴主義を支持するのか?」
それは極論である。いやこの極論であると逃げる態度こそ努力の放棄である。だからこそ私は学歴主義を否定しない。理由は上手く言えないにしても否定しない。考えずに逃げを打つことは安易な享楽であると思うから。
神がいる。愛がある。そんな世界で安穏と生きていくのは人生にすぎない。生活には神もいないし愛もないかもしれない。
それはそれで構わない。いやむしろ歓迎すべきであろう。私は地に足をつけて歩いていくことこそ大切だとあらためて思った。