けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 クローズド・サークルで舞い上がり、そして落ちることについて。

↓のエントリを書いてから、ブログ世界で、罵倒についての考察が流行っていることに気が付いた。

罵倒表現が許容されてる場ってそんなに多くないと思う

伝法な語り口調で書かれるmuffdivingさんのエントリを読んだのがキッカケ。次に、当該エントリで引用リンクされている、カノっちゃんのエントリ、

罵倒を芸風とかキャラクターだとして容認する場こそが問題

反論できない正論です。

(´・ω・`)

でも、違和感があるんだよなあ。ブログという公開の場で、裸踊りをする類稀なる「ブロガー」という変態人間は、そもそも罵倒される覚悟は懐に抱いているのではないかな?罵倒者が問題か、場が問題か、という二者択一を迫られたら、私は「場」というものに責任を押し付ける、あるいは責任回避する言論が問題だと思うな。

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私も、今まで数々の罵倒を浴びせられながらも慎ましく生きてきました。現実世界、ネット世界の峻別なく。ネット世界のそれはキツイ。突然、狂ったようなブロガーに襲われたり、ほのめかし爺さんに弱みであるツボを突かれたり。これは、読者が想像するよりも、書き手は苦しいものですよ。
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で流行の先端にいるのはhttp://d.hatena.ne.jp/Marco11/らしい。流れを把握するほど、私は一日中ネット中毒であるわけでもないので、よくわからないが、ここid:kerodonにコメントされたid:Marco11は、そんなに酷い人間ではなかったと記憶している。

今の私に想像できるのは、「id:finalvent病」に罹患してしまったのではなかろうか?ということくらいだ。奇矯なキャラを持つブログの書き手を持ち上げて、他者の言論を借りて叩き落すfinalvent。最近では、自らの手を汚して屠ることもある。

これは、現実世界でも同じと言えると思うが、その世界で影響力のある人間に持ち上げられた人間は、陳腐な書き方ではあるが、舞い上がってしまうことが、しばしばある。閉ざされた空間においては特にね。そして、舞い上がり、クルクルと舞い落ちるその落差は、厳しいものだ。屈辱を知らず、育った人間には、とりわけ。

その辺りの耐久力というのは、社会性のみで計れるものではなく、個々人の社会生活を含めた生活から、我知らず血となり、滲み出てくるものだと、私は思う。

追記(6月13日、20:00頃)

果てたブタのコメント欄において、本エントリを誤読されている方(beyondows氏)がいるようですので、追記します。

2007年06月13日 beyondows おまえが言うな, ダブルスタンダード, 俺はいいけど他人はダ finalventへの罵倒はいくらやってもいいが自分は傷つくらしい。

は?
私は、「finalventへの罵倒はいくらやってもいい」とも、「自分は傷つくらしい」と他の読者が、読み取るようなことを書いてはいませんが。対finalvent氏以外も含めて、「罵倒はいくらやってもいい」。はて?どこに書いてあるのでしょうかね?

そして、あなたが述べている「傷つくこと」は、私が述べている「苦しいこと」とは、まったく彼我に異なる感覚ですよ。分かり易い例をあげてみましょう。

ある四十路間近でありながら、親からの仕送りで生活している方がいるとします。彼は、仕送り到着直後に焼肉をブヒブヒと食いまくり、カツカツの生活を送っているとしましょう。そんな彼に対して、親からの次なる仕送り到着が遅れたとして、彼は「苦しむ」ことはあるかもしれません。ラーメン喰いてえ!とかね。

しかし、ラーメン喰いてえ!と身悶える彼。イクラなんでも「傷つく」ことはないでしょう。よほど心無き人間であるならば、「苦しみ」かつ「傷つく」かもしれませんが、私には縁遠き心の持ち主の感覚であり、理解不能です。

さて、beyondowsさんは、発する日本語も不自由であり、その上、日本語を読むことにおいても不自由な人のようにお見受けしますが、はい、本当にありがとうございました。

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追記するという機会が訪れたついでに、私の主張を繰り返しておきましょう。

ブログという公開の場で、裸踊りをする類稀なる「ブロガー」という変態人間は、そもそも罵倒される覚悟は懐に抱いているのではないかな?

ここでは、「罵倒される覚悟」について述べていますが、それを下記文章中の「耐久力」に援用してみてください。

その辺りの耐久力というのは、社会性のみで計れるものではなく、個々人の社会生活を含めた生活から、我知らず血となり、滲み出てくるものだと、私は思う。

さて、そもそも罵倒、あるいはそれに類する発語とは、なにか?これについて、また機会がありましたら、私の考えを書きたいと思います。