けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 川田稔「昭和陸軍の軌跡」〜相関図で読み解く軍務官僚の軌跡

中公新書今月の新刊。読んだ。

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

疲れた。非常に読みにくくストレスフルな書物であり、精神衛生上よくない。この辺りの本については、
http://d.hatena.ne.jp/kerodon/20080706/1215350715
の勉強をしているときに、結構、たくさんの本を読んだのだけれども、この本にはほとほと疲れた。
読みにくさの理由については、2点ほど挙げられる。まず一つ目。社会経済情勢、あるいは政治情勢すらをも捨象して、とにかく昭和陸軍(とりわけ軍務官僚)を中心とした記述がぶれることなく貫かれていること。たとえば、1939年「独ソ不可侵条約」が締結されたことをきっかけに平沼騏一郎内閣が総辞職したことについて。
教科書的には「欧州情勢は複雑怪奇」という文句が付されており、それに関する社会、政治的な背景が紹介される。しかし、本書では独ソ不可侵条約締結とそれに伴う平沼の総辞職のみに触れただけで完結している。
二つ目。とにかく登場人物が多い。そして彼らが形成する勉強会(後の派閥の原型)がこれまた重箱の隅を突付くように念入りに記述される。田中新一(後述)、あるいは二葉会等。
さて、どうしたものだろうか?と途方に暮れたが、とりあえず人物相関図と陸軍内の位置付け等を殴り書きした。

こうすると見えてくるものもある。
メモとして書いておこう。
陸軍内部の派閥闘争として、皇道派と統制派の争いがよく知られている。まず、皇道派について。彼らの多くは、佐賀、土佐閥に属していたという。これは、山県有朋を始祖とする陸軍が長州閥であったことに対抗、あるいは長州閥の排除をその志向性として持っていたことを示す。
一方、統制派。本書の副題にあるとおり永田鉄山(1934年軍務局長)を中心に形成される。以下、時系列で考えてみる。士官学校事件(1934年)、相沢事件(1935年)、二・二六事件(1936年)。この3つの事件により、皇道派はその勢力を失い統制派が台頭する。永田は相沢事件で斬殺されたが、逆にそれが統制派を勢いづかせることになる。
次に、統制派に近い石原莞爾が登場する。満州事変(1931年)でその名を知られることになったが、その後、軍務官僚としてキャリアを積み上げていく。1937年に就任した参謀本部作戦部長として、同年勃発した日中戦争に向かって、おそらくは不本意ながらも牽引役となる。
そして、中国への不拡大方針を旗幟鮮明にし、拡大路線を唱える武藤章(1939年軍務局長)と対立、陸軍中央から排除されていく。1941年、東条英機陸相により予備役とされ、以後、軍政に関わることなく余生を過ごすことになる。
戦後処理を考えると石原にとっては幸運だったのかもしれない。ちなみに彼が記した「世界最終論」(1940年)は、後に対米戦を回避しようとする陸軍の一派に影響を与えたと思われる。なお同論文が講演会の速記録であることに注意。
さて、石原失脚に前後して勢力を拡大したのは、東条英機(1940年陸相)、武藤章(1939年軍務局長)、田中新一(1940年参謀本部作戦部長)の三者のトライアングル。いずれも、前述した統制派に連なるメンバー、すなわち永田直系である。
ちなみに、東条と武藤は、戦後極東国際軍事裁判においてA級戦犯として死刑に処せられている。私は、なぜ田中が戦犯指定を逃れたかについて疑問に思ったのだが、インターネットで検索すると、そのものずばりが記述されていた。
■田中新一はなぜ戦犯の指定から逃れたのでしょうか? - Yahoo!知恵袋
さて、東条を中心とするトライアングルを形成していた武藤と田中。二人は陸軍士官学校での同期でもあるが、太平洋戦争開戦を巡り確執を強めていく。しかし対立こそあれ陸軍中央を主導してきた二人。皮肉なことに両者は共に失脚し南方戦線に送られる。それぞれの失脚理由は、太平洋戦争の本質に迫るものといえるかもしれない。
他にも幾つか、いや数知れないほどの相克が描かれている本書。昭和陸軍を人物から解体し、彼らがどのように戦局を捉え、いかなる構想を抱いていたかを知る点において、稀に見る好著である。
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一つ残念なのは、年表はもとより索引が付されていないこと。これは非常に残念。年表については他の書を利用して抜粋を作ってみた。

年表の行間に生々しい人間模様があった。