けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 有森隆「闇の系譜」:物語になり得る闇なのか?

闇の系譜 - ヤクザ資本主義の主役たち (講談社+α文庫)

闇の系譜 - ヤクザ資本主義の主役たち (講談社+α文庫)

旅行中に読了。

http://d.hatena.ne.jp/kerodon/20070829/1188340894

ここでメモした本の連想で読み始めたが、どうもスケールが小さい。もちろん、田中森一「反転」は、事件渦中の当事者が物したノンフィクション(?)であり、「闇の系譜」は、ジャーナリスト(たち)が事件を紐解いた書であるという根本的かつ絶対的な相違はあるのだろうけれども。

そのスケールの大小を感じさせる原因。時間の経過が一因かもしれない。「反転」は、80年代後半のバブルの膨張、そして破裂が舞台であり、テキトーに見積もって20年近く前の「物語」である。

人間の感覚が、ノンフィクションの世界と壮大な「物語」の世界の境界が曖昧になっていき、過去の出来事が思いの中で膨張していくという実例だろうか。あるいは、いかに「80年代バブル」が大きなものだったのかということの証左となる比較なのだろうか。

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「闇の系譜」は、ライブドア事件から幕を上げる*1。社会環境的には、通称"光モノ銘柄"と呼ばれる根源となった光通信の凋落に象徴されるネットバブル崩壊後の焼け野原を踏み締め、制度環境的には、バブル崩壊後の金融ビッグバンの規制緩和*2の波に乗って拡大した「ライブドア」。

そのライブドアは、村上ファンドの"出口戦略"に使われながら、フジテレビ争奪戦で大金を手に入れた。そこから、カッコ付きの「闇」の会社を次々に買収して、(現時点での)最後は、花と散った。本書は、その後の「闇の連鎖」を短編小説風味に描いていく。

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しかし、「物語」として読むには話が小さ過ぎる。田中森一「反転」の舞台である80年代バブルは、フィクションとして成立する世界であり、例えば、経済小説の極北である、

流星たちの宴 (新潮文庫)

流星たちの宴 (新潮文庫)

に表現される世界であり、あるいは、
生誕祭 上 (文春文庫)

生誕祭 上 (文春文庫)

に彩り深く取り込まれる世界である。

果たして、今後の「時間の経過」を経て、本書「闇の系譜」の時代が、物語の綾を紡ぎだすことが可能な舞台、あるいは世界観になるのか、考え込んでしまった。

*1:正確には、村上ファンド事件からだけど、まあ、そこは・・・。

*2:正確には、その制度施行。