けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 太田博太郎「床の間」(岩波新書):よくわからんよ・・・

うへぇプレミアでやんの。*1

床の間――日本住宅の象徴 (岩波新書)

床の間――日本住宅の象徴 (岩波新書)

書院造、違い棚、そして床の間は、男の浪漫である。というか、私が日本家屋を好いているだけなんですけどね。

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本書、奥付を見ると1978年12月20日 第一刷発行とある。ふむ、昭和53年である。さて、副題に「日本住宅の象徴」と記されているが、どうもしっくりとした副題になっていない。端的に述べると、床の間から考える住宅様式の変遷の話である。といっても、床の間の話が中心。床の間の起源を辿る話というか。

床の間の起源として、定説的に考えられているのは、押板というものらしい。で、押板には三具足という仏具、あるいは仏画が懸けられたので、仏様の祭壇として用いられたとのこと。ところが、筆者は、

しかし、このように簡単に片付けられるものだろうか。

と疑問を提示する。

そもそも押板というのは、床の間(基本的には横一間、奥行き半間)の様態に比して、奥行きが小さく、横に長いものである。筆者は、奥行きの小ささから、仏像などを置くには不便であり、横の長さは仏画を懸けるのには不必要に大きい。したがって、床の間祭壇説に異を唱える。

筆者曰く、鎌倉・室町時代にかけての宋元画の日本への流入、そして流行に焦点を当てる。すなわち、多数の宋元画を一同に会して、鑑賞する場として、押板を考えたのである。引用してみると、

現在では日本画といっても額装のものがかなりあるが、戦前は日本画といえば、大部分は軸物であった。そして、それが飾られるのは床の間であった。したがって、日本がといえば、だれしも懸軸を思い浮かべる。
(略)
それ(絵画)が住宅内で、どのような形で鑑賞されたかは非常に興味のある問題である。
(略)

このあたりの考察は面白かった。「ひまわり」の模写を大層な額縁に入れて、壁に懸けて鑑賞(?)するという様式。これは、最近のことらしい。引用はしなかったが、住宅内での絵画は、襖や屏風に描かれたものが中心であったそうだ。戦前における江戸川乱歩の小説なんかでも、屏風が事件のキーになったりしていることが多い。

次に、上段という概念が出てくる。時代劇でおなじみかと思うが、板敷きの部屋で伊草で作った円座を置き坐る。それから、畳というものが発生するのだが、現在のように部屋全体に敷き詰めるわけではない。偉い人のところに敷いたり、少々偉さに劣る人には、小さい畳を用意する。

そして、現在のように敷き詰める様態に至った時、階級的象徴としての畳は意味を為さなくなり、上段が登場する。畳を敷き詰めた平面空間に、一段高い空間を設けるわけだそうである。それは、畳を重ねた簡易なものであったり、高い空間を常設したりする。それが床の間に化したのである。
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で、ここまで書いて、書いている私がグダグダになった。

どうやら、床の間とは、押板(絵画を飾る空間)と上段(階級差の表象)が、合体したことによって誕生したらしい。床の間が上段、すなわち人が坐るところ、というのには納得がいかない向きもあろうが、例えば、次のような床の間を見ると、肯くことが可能かも知れない。

京都の日本建築 曼殊院 No.3

ちょっと分り難いのだが、二枚目、三枚目の写真の右手に注目。二畳(一間四方)くらいの「床の間」がある。しかも、平座に突き出す形である。これを見ると、「床の間」に貴人がお座りになられ、その後ろに後光の如く掛軸が懸けられていたのかな?と考えてもおかしくなさそう。

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と、いった感じで、自分でもよくわからない感想文。床の間というものが奥が深いのか、私が浅はかなのか・・・

(´・ω・`)

もう少し勉強します。

*1:リンク先の右側の本は面白いよ。