昨日の続き。
「メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス」*1(日本評論社)p.55より引用。
佐々木
(前略)その関連で、僕が一番問題として感じているのは<絵文録ことのは>というブログを開設している松永英明さんが、オウム真理教の信者だったと言う騒動です。彼が、2005年総選挙直後の10月31日、その身分を隠して民主党のブロガー懇談会に出ていたことについて、ものすごく批判が集まった。私はCNETの「ジャーナリストの視点」で「ことのは問題を考える」というエントリーをあげて、”絶対的正義”を盾にして、権力を持っていない人を声高に指弾するのはやりすぎなんじゃないか、と書きました。それに対して、批判的意見がトラックバックで5件か6件くらい来ました。これらのブログを書いているのは、おそらく5、6人くらいのグループです。一方で、同じエントリーに対して、はてなブックマークの感想をみると、もちろん批判している人は何人かいるけれど、150人のうち130人くらいは好意的な反応だった。そうすると、「はてブ」における評価と、トラックバックで見えている評価が180度違っていることになる。さらに、トラックバックはしないけども、ブログで好意的に書いている人もいるわけです。
(後略)(文中太字は引用者)
まず、引用文中の佐々木氏のエントリは、
それに対するトラックバックは、リンク先のトラックバックを表示させると見える。そして、当該エントリに集まった「はてブ」は、
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2006/05/post.html
さて、佐々木氏は自らが書いたエントリーに対する批判的トラックバックは、「おそらく5、6人のグループです」と、あたかもノイズであるかのように排斥する。そして、「はてブ」をその対抗軸として持ち出して、「評価が180度違っていることになる」と論じる。
私は、トラックバックされたエントリが、「はてブ」コメントより優越性があると主張したいわけではない。私が言いたいことは、
ただそれらだけで、世界は構成されているわけではないんだ、ということ。
2ちゃんねるの関連スレッドでも佐々木氏(を始めとする論陣)に対する批判の声があった。2ちゃんねるを持ち出すことには、賛否があると思うけど。すなわち、佐々木氏が取り上げた3つの場だけが、舞台じゃない。それを取り違えて、都合の良いところだけをつまみ、「150人のうち130人くらいは好意的な反応だった」と。
蛇足だけど、インターネットの世界だけが、言論世界ではない。というか、これを持ち出すのは、前掲書がインターネットについて考える本ゆえに、本筋から離れるけれども、私の意見として書いておこう。
街角のカッフェや飲み屋のカウンターで、「ことのは問題」が論じられることはない(おそらく)。世界の大多数の人々が、「ことのは問題」なんか知っちゃあいないし、「はてブ」だって知らないよ。
でもオウム真理教が起こした凄惨な事件は、大多数の人が知っている。彼ら、彼女らに、「ことのは問題」と、その後の「ことのは騒動」について、分り易く、そして客観的に状況説明して、意見を求めたら「150人のうち130人くらいは好意的な反応だった」なんて、呑気なことにはならないと思う。
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なんか、グダグダになったけど、「グループメソッド」については、正直、もうどうでも良い。
ただ、今思うのは、耳に入る声だけがすべての声であると考えるのは傲慢な態度だね。そもそも、インターネットって、新聞等では報じられない小さな記事、小さな声を可視できる可能性があるという意味で、「革新(イノベーション)」なんじゃないのかな?
追記
http://digitaljournalism.jp/にトラックバックを送りました。場違いかも、と思っていますので、関係者の方は適当に削除されて結構です。