各地で、ハードボイルドに触れたエントリを見かける週末。例えば、
例えばハードボイルドの探偵たちの多くは、決して社会的正義ということを口にしない。
いつも動機は個別的である。注意深く読んでも、これが動機だったのかと俄かには分からないところもある。
多くは向こうから事件がやってきて、始めはいやいや逃げるのだが、何故かは知らないが巻き込まれ、街をうろついていると後ろから頭を殴られ、それから人知れず泣いて、相手に向かってゆく。
性格の悪い美人が出てくるところもセオリーである。
これは、もう絶対に外せないハードボイルドの「型」。巻き込まれて、頭を殴られる。これだけで、半熟卵として成立する。そして、一番の肝は、「人知れず泣いて」自らの価値観、あるいは行動規範に立脚して行動するところ。見方によっては、単なるマッチョ。
続いて、
純文学でもハードボイルドでも男性作家の書く女性像は、実はハーレクインロマンスで描かれる男性像とたいした違いがない。男性デザイナーが作る女性の服にも、その人間の持っている女性の理想像がしばしば反映されるが、しかしある種の女はその幻想を綺麗に纏ってみせる。そしてまた魅力的な女優は、幻の女を演じてみせる。
後半部分は、子供である私には分らない難しい話だが、前半部分。これは、古典的なハードボイルド小説における女性像である。しかし、例えば馳星周「生誕祭」、「トーキョー・バビロン」においては、ハードボイルド小説における女性としては、画期的な女性が描出される。あるいは、女性をハードボイルドに据えたのか。
と、女性に縁がない私が、延々と女性を語っても埒が明かないので、ちょっとしたトリビア。
強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない(プレイバック)
まあ、この言葉に胸を撃たれなかった男性諸君は居ないと思います。ところが、市販されている清水俊二訳R・チャンドラー「プレイバック」には、該当するせりふがないのである。前々から、不思議に思っていたのだけど、その答えが、今朝の東京新聞日曜版に記載されていた。
ちなみに、冒頭のせりふは、日本映画の宣伝に使われた意訳。*1
とのことです。
*1:「冒頭のせりふ」は、「強くなければ・・・」というせりふです。