けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 福田和也「ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法」(PHP研究所):抜き書きの効用についての自己陶酔。

すばらしい本を読んだ。

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)

ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法 (PHP文庫)

すばらしい本とはなにか。
浮世の辛苦を忘れて読みふけり、ひとときの現実逃避に心をゆだねるような快楽の本。未知なる知識あるいは見識が身について、ときとして他人に話したくなるような内容の本。
そして自分の既存の知識の再確認に資する本。これ自論が他人の書いた本の中で展開されていて「ほかの人も私と同じことを考えているんだ」っていう自己陶酔の喚起である。しかし「私の考え方がほかの人にも伝わっているんだ!」は電波ゆんゆん
さて、本書は百冊読んで云々について実践的な方法が提示されている。実践的というのは一般的ではなく、ましてや普遍的なものではなく、これこれすれば百冊読むことができます(かも)よ、ということである。
ポイントは書を読む際にテーマを絞るということ。繰り返すが文章を書くときにテーマを絞るのではなく、本(文章)を読むときにテーマを絞るということ。
たとえばスタンダール赤と黒」を読むときに、登場人物の心理描写、階級闘争(ちがうか)を渾然と読むのではなく、赤と黒なら赤と黒に焦点を当てて読むということ。「赤と黒なら赤と黒」については検索してみてね。
まあなんとも無味乾燥というか寂しい読み方だけど、言われてみると百冊読むにはこういう読み方が必要なのかもしれない。もちろん著者は純粋に小説を読むことも否定していません。
本書は抜き書きの効用についても提示している。引用する。

手書きで抜き書きした方がいいのです。(キーボードから手書きに戻した理由について)というのも、手で書き写していると、いろいろなことに気がつくのですね。脳が違った動きをするのでしょうか。(略)抜き書きは書き手の考えを理解する上で、とても役に立ちます。

これこそが先に述べた自己陶酔の喚起である。
けろやん。メモ-あなたはデジタリアン?それともアナロギアン?
もっと適切なエントリを書いた覚えがあるのだけど、とりあえず私はナルシストなメモトリアンということを書いたエントリ。
しかしメモを取ると腕が痛い。いらいらして書いている内容が頭に入ってこないという笑えない本末転倒も起こり得る。そこで本書はメモの抜粋箇所の選択についても提示している。
曰く、これは大事だぞ!よい文章だぞ!という箇所を発見したらページの上方を折る。そして一読後に折ったページを読んで、ふむふむ!したら初めてメモに取るとのこと。なるほど。
私はここで完全な自己陶酔に浸った。これって私がいつもやっていることじゃないか!って。まさしく私の自論(方法論)が他者により展開されているのである。天下の福田和也と私が同じことを考えているんだぜ。
・・・問題は本書を読んだのが二回目であること。たぶん初読時に読んで新しい知識(方法)を学び楽しみ、今回の再読で自己陶酔したんじゃないかな。まあ二回楽しめたので良いことにしておこう。
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本文では抜き書きの効用を中心に書きました。おそらく私も含めてみなさんも「自己陶酔」する箇所を中心に抜き書きするのではないでしょうか?しかし本書では未知なる知識を抜き書きする効用も提示されています。すなわち読んで意味不明な箇所も自分の手で書き写してみることで、理解できるようになることもあるということ。
ある程度の意味不明という限定つきですが、私も同じ方法で文章を「解読」することがあります。文章の変拍子のリズム、あるいは不協和音のメロディーも自分で書き写すことで、自分の「文章の呼吸」に持ち込むことができることがあるのです。
みなさんも試してみてください。ただし狂ったような文章を呼吸すると狂ってしまうかもしれませんので気を付けてくださいね。
(追記 07:51)
本文に掲げた私のエントリ。考えさせられることが書いてあったので引用。

最近の小説なんなりの文章はパソコンで、すなわちデジタルで書かれているものがほとんどでしょう。それを手で抜き書きすることは、デジタル入力されたものをアナログで出力するわけですから違ったものになってしまいます。リズムの不一致とかですね。このツールの違いによって生じる断絶をどうしようか迷っているところです。