けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 藤本正行「信長の戦国軍事学」:都を離れること、正面対決をすること。

図書館で借りて読んだ。

信長の戦国軍事学

信長の戦国軍事学

初読。以下、エントリが非常に長い。肩を寄せ合って夜空を眺めていた方が絶対いい。
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トンデモ本の類かと思った。
まず、ミッドウェイという表現が繰り返し出てくる。著者は太平洋戦争ヲタか?しかし、結びにかえてで、

軍隊に行った経験のある父の影響もあって、中学生の頃から近代の戦記を乱読していた筆者は(略)

と述べている。たしかに過去の軍跡を近代戦争に「生かして」(実践して)戦略を立案するというのは当然のことだろうと考え直した。過去の軍跡等については後述。
次。とにかく太田牛一信長公記原理主義が貫かれている。なにしろ「序章:太田牛一と「信長公記」」で、本書の3分1弱が割かれている。序章で3分1弱だ。そして、この3分1弱で「信長公記」の史料的優位性を橋頭保*1として、信長の数々のエピソードの検証を進めていく。
信長公記原理主義でいいじゃないか!」という声もありそうだが、とにかく「信長公記ではこのように書かれている」を御旗にして、既説をばっさばっさと叩き切っていく。
これを小気味がよいと感じる向きもあるかもしれないが、私は争い事が好きじゃないので、ちょっと苦しかった。
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目からうろこの説が展開されている。
まず、本能寺の変

「光秀単独説」と「黒幕存在説」の議論の火がかまびすしいのはご存じのとおり。本書では、光秀単独説がとられている。ちなみに、このあたりについては、筆者のエネルギーが低下している。なぜか?後述する。
さて、光秀単独説。家康饗応に係るもの、天下一統野望、あるいは信長討伐への機会が発生したという説から派生した考察が百家争鳴になっている。
さておき、本書の筆者は「光秀単独説」。ここからが目からうろこ。変の原因を信長軍の領土拡張にあるとする。すなわち天正九年(1581年)ころ、武田氏滅亡の結果、関東の膨大な領土が信長の手に渡った。その経営を任されたのが滝川一益。齢58歳という老齢。
同様に毛利氏との戦いが終息したら(終息することは確実視)、光秀が西国経営のために送られることがほぼ確定していたという*2。彼は自らを滝川一益に重ねたのではないか?著者は述べる。

彼(光秀)のように文化の中心地である畿内で長く暮らした教養人にとって、老後を西国で送ることは、想像しただけでも苦痛であったはずである。
()内は引用者

このように、本能寺の変の原因は、予想される西国領土の拡大にあったとする。この視点、寡聞ながら初めて知る説である。そして、都を遠く離れる光秀の心情が手に取るようだ。
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次。石山本願寺攻め。経緯。信長軍が石山本願寺を包囲する中で、本願寺は西国毛利氏による海上からの補給を受けて、兵糧攻めに耐えていた。対する信長軍は天正四年(1568年)に補給路断絶戦に踏み切る。しかし、信長水軍は毛利水軍により完敗する(第一次木津川口の戦い)。
再戦を挑む信長軍。ここに有名な「鉄甲船」が登場する(第二次木津川口の戦い)。

この鉄甲船の目的は、毛利水軍との戦いでない。言い換えると毛利水軍との全面対決をもくろんだわけではないということ。鉄甲船を対本願寺の付け城として位置づけた。
付け城。敵方の城に兵糧攻めを行う際に、その城を囲むようにして築かれる城。だいたい砦と呼ばれる。もちろん、城への力攻めの橋頭保となることもある。
このように、鉄甲船は水上を移動して毛利水軍と戦うのではなく、本願寺への水上補給路を遮断する付け城であった
信長陸上部隊からの兵站線は確保されている。したがって、兵糧等を船に積載する必要がない。これにより鉄で覆った重量のある鉄甲船も効果を上げることができる。水上における付け城。あるいは砦。
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最後。桶狭間の戦い(1560年)。ここが本書の白眉となり筆者は大いに語る。太平洋戦争の戦略においても桶狭間が流用されたとのこと。すなわち、小さな部隊が大きな部隊に勝つ。
少人数の信長軍が、大部隊を率いるの義元軍に奇襲して勝利する。歴然たる兵力の差。小国日本が大国アメリカを奇襲する。一撃必殺。その後の推移はご存じだろう。
さて。私は桶狭間は文字通り山裾の狭間(盆地)であったと教科書で習った。しかし、現在では桶狭間は「おけはざま山」という丘陵であるということが通説になっている。
盆地。これに焦点を当てると、織田軍は丘陵から駆け降り、盆地で休息(待機)していた今川軍を奇襲したということが通説となるのも不思議ではない。これが、いわゆる迂回急襲説の根拠となる。丘陵から駆け降りる奇襲。

しかし、桶狭間が「おけはざま山」と考えると丘陵で待機していた今川軍に対して、織田軍は山裾から駆け上り今川軍を破ったということになる。これは、奇襲として成り立ちにくい*3
さて、メモはしておくものだ。
けろやん。メモ:続編を待たずにワクワクできるよ!
ここで紹介した歴史街道

歴史街道 2010年 06月号 [雑誌]

歴史街道 2010年 06月号 [雑誌]

大特集が「桶狭間の謎」。本書の筆者が登場する箇所を引用する。

「迂回急襲説」の通説に初めて異論を唱えたのが藤本正行氏である。(略)「信長は迂回奇襲したのではなく、正面から義元本陣を攻撃した」とする「正面攻撃説」を唱えた。
(太字化は引用者以下同)

内容は重複するが別の個所も引用する。

信長の勝利は迂回奇襲説によるものだったのか、それとも正面攻撃だったのか。(略)しかし近年、この論議も、次第に収束される方向に向かいつつある。それは、昭和57年以来藤本正行氏が、良質の史料による考証の必要性を繰り返し強調してきたことによって、史料の取捨選択が進んだことが大きく影響している。

いまだ謎の多い桶狭間の戦い。しかし、筆者の主張する正面攻撃説が新しい視点となったことは間違いない。
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最後まで読んでくれた人、どうもありがとうでお疲れ様でした。本文で記述したけど本能寺の変の原因。私にとって、想像力を膨らませるきっかけになりました。
また、鉄甲船についても重量等から考えて、船の移動は可能だったのか?そもそも、そのような船は実存したのか?という議論を見かけるけれども*4付け城(砦)として考えるとすっきりしました。

*1:本文に影響されちゃっているね。

*2:ほぼ確定していた環境については省略。

*3:厄介なのは、おけはざま山の山裾に田楽狭間という盆地があり、そこで今川軍が待機していた可能性も払しょくできないこと。すなわち、おけはざま山から、信長軍が駆け降りて今川軍を破ったとも考えられる。

*4:NHKの番組でも議論されていた記憶があります