慶長三陸地震のことは前に書いたね。
けろやん。メモ:メモ:調べること
避難用のバカでかザック(推定10キログラム)は夢のように役立たなそうなので、小さなザックに薬、水、練乳を放り込んだ。
このときは断続的な地震で縮こまっていたものだね。
朝日新聞サイトが焼き鳥のネギマになっていることは前に書いたね。
けろやん。メモ:配信サイト有料化の損得勘定:レバニラ食うのやめろ!
朝日新聞サイトやWSJ日本版サイトも同様。これらも、食いかけレバニラ方式で有料会員を獲得してウハウハ儲けよう!なんだろうけれども
ネギマじゃなくてレバニラだったね。でもネギマの方が分かりやすいね。なんでレバニラだったんだろうね。
たれがたっぷりのネギマの正肉を食い、ネギを食おうとしたら「こちらのネギは追加料金になります」。つぎに正肉を食おうとしたら「こちらの正肉は追加料金になりますネギマみたいなね。
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さて、紙の朝日新聞2013年6月19日付夕刊が慶長遣欧使節について書いていた。紙では1面及び3面。ネット記事はこちら。
朝日新聞デジタル:遣欧使節資料、被災者の励みに 復興の記憶つなぐ
ネット記事を引用してみよう。
と読んでいくと「続きを読む」ってボタンがあったので、押下してみると、
会員登録のご案内
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これがネギマ方式。というか精神的ブラクラ。この記事の場合は無料会員登録をすると続きが読めるらしいので良心的かな?でも「有料会員のみ入れてあげるよ!」記事もある。
また無料で良心的であるとはいえども、会員登録はえらく面倒くさくて、登録後はどうでもいいメールがチェーンしてやってくるのでご注意ください。日経サイトの経験。
さて、話を戻そう。
朝日新聞デジタル:遣欧使節資料、被災者の励みに 復興の記憶つなぐ
これ、まったく記事の体裁を成していない。紙新聞でも「2つの国宝、世界の記憶に」が大見出しになっているが、その下に「ユネスコ、遺産登録へ」と書かれている。上記引用記事では、ユネスコのネコの字も出てこない。なんだこりゃ?
朝日新聞のネギマやなんかについてゴム糊みたいに粘着するのは止めて、本題に本当に戻ろう。
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朝日新聞2013年6月19日付夕刊より引用。
記事は後者にほとんど言及せず慶長遣欧使節について話が進む。
整理してみる。1611年(慶長16年)慶長三陸地震が発生する。これは東日本大震災(平成23年)の400年前。慶長三陸地震の二年後、すなわち慶長18年支倉常長ら遣欧使節団が欧州へ出発。
さて慶長16年あるいは18年はどのような時代であったのか?調べてみると、慶長5年「関ヶ原の戦い」、慶長19年「大阪冬の陣」とある。すなわち、平和という意味での江戸時代は始まっていない。まだ戦禍の中だ。
その臨戦態勢下の「国」を大災害が襲った。Wikipediaを引用する。
慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年が経過しても米が収穫できず、
米が収穫出来ない中で大阪冬の陣に対峙する。その前年の慶長18年。世情は戦闘前夜の緊迫した空気が覆っていただろう。
使節団は、大地震の悲嘆の2年後、そして火薬の臭い漂う冬の陣の1年前に出発する。使節団を送り出した伊達政宗の心中はいかなるものであっただろうか?
欧州との貿易による国土復興の志もあっただろう。しかし、戦禍の中において、いや中においてこそ異国と文化交流を行いたいとの願いもあったに違いない。
記事の引用を続ける。
(漁業を再開した阿部さん)「支倉さん、頑張っていったんだべな」(中略)震災後身の回りの出来事をノートにつけている。(中略)使節団が震災復興のために海を渡ったという説が生まれたのも、400年前の資料が残っていたからこそ。阿部さんは、ノートを大切に保存するつもりだ。
今回、遣欧使節資料が「世界記憶遺産」への登録に向かった。記憶遺産がどういうものかしらない。しかし、上記記事を読了後、記憶は風化するが記録は残る。そして残された記録から記憶がよみがえると思った。
記憶に比べて記録は即物的な感じがするかもしれない。しかし、繰り返すが、記録あるいは資料が残っていてこそ思い出される記憶もあるということ。強く心にとどめておきたい。
(付記)
遣欧使節団が、慶長三陸地震の復興の意味合いもあり送られたという説については、以前NHKの番組でも紹介されていました。しかし、このエントリを書いていくうちに戦禍の中での文化交流も目的としていたのではないか?ということに気が付きました。
いや、えらそうに自慢するわけではなく、Wikipediaで慶長期を調べてみた結果気が付いたということです。記録してみる、とまでも行かなくとも書いてみるという行為で見つかる発見もあり勉強になりました。