けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 佐々木俊尚「フラット革命」:われわれは〜〜〜!!

フラット革命

フラット革命

第四章については、

http://d.hatena.ne.jp/kerodon/20070808/1186577229

で、部分的に感想を述べましたが、通読した感想を書いておきましょう。著者には、耳が痛い話かも知れないけれども、読み進めば、読み進むほど詰まらなくなっていく本という印象。すなわち、本書は四章構成だが、第一章「フラット化するマスメディア」の章は、非常に興味深く読んだ。が、その後は、どうもねえ・・・というのが、本書全体を通しての感想です。

さて、その第一章から、引用してみましょう。

「インターネットには罵詈雑言ばかりがあふれている」と認識することは、明らかに偏った見方であるということだ。どの世界にも、心ない言葉を吐く人たちはいる。居酒屋で、隣の席の中年サラリーマンが会社や社会に対する呪詛のような罵詈雑言をまき散らしているのを見ることがある。在日韓国人や同和地区に対する差別的な言辞を吐く人も、世の中には少なくない。

この部分。最初に結論を提示して、その後に比較する舞台の題材を例示して*1、結論を補強する、という佐々木氏らしい(と書いたら失礼かな?)書き方。

私が、ふむふむ!と大きく肯いたのは、これに繋がる結語の言葉。

ネットによって悪意が突然生まれたきたのではなく、ネットによって人々の悪意がパブリックに表出されやすくなったのである。
(太字化は引用者)

それは、詭弁だよ!と思う人がいるかもしれない。しかし、常日頃から、インターネットはツールであり、言論空間としてのインターネット世界は、言葉を発する一つの場所に過ぎない、と考えている私は大いに賛同した。もちろん、「とても大きな場所、インターネット世界!」だとは、思っているけれども。*2

場所の誕生。もしインターネットというものが無ければ、所謂「ひきこもり」の人々の絶対数は、現在と異なる数値だったかも知れない。社会という場所を離れても言葉を発することの出来るアジール(聖域・避難所)が、インターネット空間(の一部)に発生したのだと思う。

そして、今後も場所としてのインターネット世界は、不気味に啼く鵺の群れを拡大再生産していくだろう。それは、避けられないことであり、そのようなノイズの森を一所懸命にくぐり抜けながら、現実世界の地にしっかりと足を着けて、生活をしていかなければならない、と私は改めて思った。地に塗れ、あるいは地に堕ちることなく、地に足を着けて。

付記

同書p.72を見ると(読まなくてもよい)、佐々木さんは<われわれ>という単語を17回も使用されている。正直、踊る<われわれ>という単語に目が回ってしまいます。佐々木さんは、「われわれ」という言葉が大好きなんだなあ!と思ったな。

参考リンク:
新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか:佐々木さんの「われわれ」エントリ
「フラット革命」第一章へのツッコミ:第一章に限定した書評

*1:この場合、前者がネット世界、当該題材の舞台は現実世界。

*2:分り難いかも知れないので補足すると、一つの大きな場所が生まれたが、現実の生活を根底から覆すものではない、というような意味です。