けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 F・W・ニーチェ/適菜収「キリスト教は邪教です!」(講談社+α新書):ロシアの小説みたいな。

笑いも度が過ぎるとそのあざとさに辟易してしまいます。
読んだ。

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』 (講談社+α新書)

ニーチェ「アンチ・クリスト」の超訳本。ニーチェのテキストというよりも訳出した適菜収のテキストといっても構わないだろう。
適菜収はまえがきで基礎工事に着手する。引用。

なお、時代的な背景から、現代では差別的ととられかねない表現が散見されますが、文意を損なう恐れのある個所のみ、そのまま残しました。

新たに訳出するということはテキストの再構築であり、その時点で差別的な表現を避ければよいはず。それにもかかわらず差別表現をそのまま「残しました」のはなぜか?以下の引用等を読んでいくと分かる。
ブッダについて。

仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活することを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。

これ、道端で大きく横になってる浮浪者だろ?
パウロについて。

エスの「使徒」を自称しているが、十二使徒の中には数えられていない。当初はユダヤ教徒としてキリスト教を迫害したが、ミイラ取りがミイラに。「イエスの犠牲と復活」という神学をでっちあげ、キリスト教の理論家となった。

ミイラになったミイラ取りがでっちあげた神学で理論家になったとのこと。
新約聖書について。

新約聖書』の世界はほとんど病気。社会のクズや神経病患者、知恵遅れが、こっそり皆で集まったような、まるでロシアの小説のような世界なのです。

唐突なロシアの小説の出現に吹き出した。
キリスト教の僧侶について。

みっともない偽善者や気が狂った人たちが、「人間の魂は死なないから、みんな平等で、個人それぞれの救いこそが重要だ」などと、自分たちのために自然の法則が破られるのは当然だとばかりに主張しています。本当に恥知らずですよね。いくら軽蔑しても、しすぎることはありません」

気が狂った恥知らずが主張したとのこと。
キリスト教について。

キリスト教は、こうしたおごり高ぶりによって、広がっていきました。できそこないや反社会的な人など、人類のガラクタ全部を説得して味方につけてしまったのです。

キリスト教はできそこないのガラクタを味方につけたとのこと。すなわちキリスト教徒は「できそこない」「反社会的」「人類のガラクタ」であるとのこと。
−−−
わかりましたか?適菜収という訳出者はニーチェのテキストを出汁にして笑いを取っているのです。
気を使わないブッダ、でっちあげられた神学、ロシアの小説。このあたりまでは笑いながら読んでいましたが、いくらなんでもやり過ぎです。差別用語を持ち出して笑いを取るというのも(ここまでくると)嫌になってきます。
そんなわけで途中で本書を放り投げました。せっかくニーチェを読み終えることができると思ったのに残念。
さて本書を読んで少ないながらもわかったことを書いておきましょう。
ニーチェが叫んだアンチ・クリストの「クリスト」というのはイエス・キリストではなくキリスト教のこと。すなわちニーチェキリスト教を批判していたようです。キリストはというとキリスト教のシンボル(あるいは道具)としてパウロらに祭り上げられた神輿であったと。
私は宗教とはペテンであると常々考えているので、この論理展開にはうなづけるものがあります。しかし、本書の鬱陶しい笑いにまみれた論調ではよく把握できませんでした。
とりあえず「アンチ・クリスト」を読んでみたくなったので収穫はあったかな?
(本稿以上)
(参考)

ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)

ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)

Philosophy of casework-『反キリスト者』におけるニーチェの宗教観
Friedrich Nietzsche
不二草紙-『キリスト教は邪教です!(現代語訳アンチクリスト)』
ニーチェ 『反キリスト』、『この人を見よ』