けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 坊ちゃん対決at甲子園:おしるこ食いすぎ

漱石対決が大甲子園のグラウンドで繰り広げられたようです。
すでに坊ちゃん対決というすてきな言葉で報じられていてがっかりです。
産経WEST:あす“坊ちゃん対決” 選抜82年ぶりの松山東が二松学舎大付と
松山東高校は母の出身校で、二松学舎大付属高校はといえば、昨年の夏の活躍に魅せられていたので両チームの決戦には注目していました。
けろやん。メモ:甲子園:二松学舎vs.海星〜ちびっ子がラッキーボーイとなり、ちびっ子童顔は度胸で対峙した。
結果は5対4で松山東高校の勝利。歯医者に行かなくてはならなかったので、8回くらいから観れませんでしたが、そこまで観たところでは「大人の対決」でしたね。
大人とは、松山東のピッチャーであり、2年生がつらなる二松学舎打線の3年生の4番打者。彼はキャプテンでもあったと思います。
ちびっこたち(失礼)はといえば、二松学舎の2年生バッテリー。その彼らですが、ストレートは作夏の1年生バッテリーのときよりも鋭くなっていましたが、ずるずる点を取られる展開になってちょっと残念。
それでも打者として2人ともタイムリーヒットを放ちお見事。とくにピッチャーの童顔ちびっこは粘りに粘って、非力(そうな)を振り絞って同点タイムリー。ここ、一番感動しました。
−−−
ここからは試合を離れて坊ちゃんメモ。

Wikipedia-坊つちやん
主人公は東京の物理学校(東京理科大学の前身)を卒業したばかりの江戸っ子気質で血気盛んで無鉄砲な新任教師である。漱石高等師範学校(後の東京高等師範学校)英語嘱託となって赴任を命ぜられ、愛媛県尋常中学校(松山東高校の前身)で1895年(明治28年)4月から教鞭をとり、1896年(明治29年)4月に熊本の第五高等学校へ赴任するまでの体験を下敷きに、後年書いた小説である。
(太字化引用者以下同)

さて実際の漱石を調べてみる。

1893年明治26年)、漱石帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2か月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。

坊ちゃんに描かれるような血気盛んな江戸っ子として松山に赴いたわけではなさそうだ。例のおしるこを食いまくるという坊ちゃんのエピソードも創作ではなかろうか?
いや小説が嘘っぱちだから云々というわけではなく、多分に自らを発起せんがために坊ちゃんを活躍させたというのが本当のところだと思うし、それこそがすばらしさ強さだと思う。
−−−
夏目漱石朝日新聞の再連載「三四郎」が終了しましたね。新仮名遣いでの連載。中途半端しないで旧仮名遣いで連載して欲しかったものです。
朝日新聞デジタル:漱石三四郎
おや?人物相関図やら名所案内が掲載されているぞ!
こんな部屋に住んでいたのかな?