表題は、
に「携帯電話」を放り込んだら出てきたモノ。
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筆者自らが「愚考」と書いているのだけど、私が読んでも「愚考」だと思った。そもそも「考」に至っていないというか。言葉が悪くて、ごめん、だけどね。
まず、
GPSと通話ならよしということとも関連し、つまり、親の見えないところでの子どもの安全性を確保したいということだろう。
私は、この辺りが、携帯電話を子供(小中学生)に与える一番の理由だと思う。しかし、筆者は、横道を掘りながら話を進める。
それが理由で親は子どもに携帯電話を与えているのだろうか。
そこがどうも世間を眺めてみる感じでは納得いかない。というのは毎朝見かける携帯メール打ちながら歩道を行く学生とかの像ととうまく馴染まないからだ。
ここで記述されている「学生」って小中学生なのだろうか?原文の流れでは、確かに「学生」=「小中学生」である。しかし、一般的な言葉の使い方として、小中学生を「学生」とは呼びません。
まあ、言葉の使い方なんて人それぞれだし、どうでもいい。しかし、「小中学生」が「携帯メール打ちながら歩道を行く」って、それこそ、
そこがどうも世間を眺めてみる感じでは納得いかない。
と私は思う。住んでいる国が違うのだろうか?
要するに、筆者(finalvent氏)は、本来的な学生(高校生以上)の光景を故意かボケかで、「小中学生」の光景に当て嵌めて、論を進めているように思われる。前提がそれだから、自ら述べているように「愚考」であり、端から読んだら「愚の骨頂」。
で、話は小中学生の親である「サッカーママ」につながる。まあ、この辺は、最近のお気に入りらしい「マイクロトレンド」って本の話。
私がこの「サッカーママ」を連想したのは、先の日本の小中学生の母親たちが、10年前の米国の「サッカーママ」に近似しているのではないかなと思ったからだ。
で、また「小中学生」に話が戻る。どうやら、本心で「小中学生の携帯電話利用」について記述している模様。
と、話がグダグダ続いて、
私的なセクターとしての教育を含んだ時間領域の充実に携帯電話が投入されているのではないか。
とまあ、難しそうでカッコ良いような言葉でエントリは終わる。
カッコ良いかもしれないけれども、世間の光景を見る目のピントがずれているのじゃないかな?と思った次第。