けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 K・ロヤーン「上がりかまちの句読点」

2ちゃんねるで、句読点(くとうてん)が話題になっていたので、少しだけ調べてみた。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/7112/howto/text02-04-01.html−−−(A)

句読点というものは、歴史があるようでありません。海外ではどうなのか分かりませんが、日本では正式に使われ始めるのは、江戸後期か明治からだと思います。古文書を見たことがある方なら分かりますが、句読点はありません。おそらく楷書が普通化した辺りから使用されたのではないでしょうか。

あるいは、

http://joram.agz.jp/diary/2004-02.html

句読点の歴史というのは意外と浅く,一般に用いられるようになったのは明治20年代以降で,さらに広く使われるようになったのは昭和に入ってからだそうです.考えてみれば昔の古文書のようにグニャグニャした文にはマルもテンもないですね.もともと日本語には句読点を打つ習慣がなくて,賞状や証書などのかしこまった文章には句読点がなく,句読点が普及した今もそういった名残があります.

とのこと。

歴史と離れて、上記リンク(A)を読むと、

(前略)このような場合に、読点を打つのが普通でしょう。そのうえで、あとは自分の感性や経験によって打つことになります。逆に、小説や論文などを読むとき、読点の打ち方を見ると、その文章のレベルも分かると言えるでしょう。
(太字は引用者)

とあります。フムフム。

確かに、句読点の打ち方は、百人百様であり、書く人の「感性や経験」に左右されるように思います。いや、「百人百様」ではなく、「一人百様」と言えるかもしれません。すなわち、書く人の心の状態、いわゆるテンションの高低によって、打ち方が異なるというのは、私自身の経験では明らかです。

いずれにしても、文章の内容を明確に示すという役割のほか、文章のリズムとして(これは主として、文章の読み手が受け取るリズム)、句読点は大きな役割を果たしているのではないか、と思う次第です。*1

句読点の歴史については、

日本語の歴史 (岩波新書)

日本語の歴史 (岩波新書)

に、書かれていたような気がします。

*1:漢字仮名混じりの文章の場合、極端な話、句読点が皆無であったとしても、内容を理解することが可能であると思います。