けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 「サヨナラ」ダケガ人生ダ

先に書いたエントリの追記内の言葉「消すことだけが人生さ!」は、

さよならだけが人生だ

のパクりであるわけですが。さて、この言葉、もともとは于武陵「勧酒」からの言葉です。調べてみると*1、原文は、

人生足別離

ということで、まあ淡々と、あるいは良く言えばケレンを削ぎ落とした言葉。で、それが浪花節的に「さよならだけが人生だ」*2とキャッチとして昇華したのは、井伏鱒二の訳業に寄るところが大きいようですね。。

さて、ここで考えてみましょう。「消すこと」と「さよなら」の違い。共通するのは、「私の視界からナニカが無くなってしまう」*3ということですね。記憶を消す、あるいは好きだったあの人とさよならする。

ところが、「消すこと」と「さよなら」には大きな違いもあります。消すことが能動的で、さよならは受動的?いえいえ。さよならが受動的であると短絡的に考えてしまうのは、好きな女性からフラれてばかりの私みたいな人だけでしょう。能動的に「さよなら」することもありますね。

では、何処が違うのか?「消すこと」を実行すると、そこには何も残らない。今回の例を考えると、トラックバックを消した本人には、「またバカ蛙がうっとおしいTBを送ってきやがったぜ、ちっ!」というくらいの記憶は残るかも知れません。しかし、ブログという平面筐体からは、削り除かれ、文字通り削除されて痕跡も、クソも残らない。まあ、クリック一つで排除可能な、非常に現代的な有体ですね。

ところが、「さよなら」となると、これは話が大きく異なります。受動的に「さよなら」されたり、能動的に「さよなら」したりしても、記憶から削除されるのには時間がかかるわけです。

ええっ?さっき「消すこと」でも消した本人の記憶には残る」って書いたじゃないか!という、のは早ガッテン。「消すこと」の第一義的効果は、状況として(今回の例を考えるとブログの状況)削除され、痕跡も、クソも残らないということです。

まあ、自分で書きながら、薄蒼い夜空の星を見ながら、「なんだかんだと鬱陶しいぜ!」by.清志郎、ということで本題「さよならの意味?」については、また次回。

*1:http://homepage3.nifty.com/park/juku/omosiro7.htm

*2:↑に拠ると「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」

*3:能動的であれ受動的であれ、結果としての喪失。