けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 一抹ではない不安

http://d.hatena.ne.jp/BigBang/20070318

について、幾つか気になる点があった。例えば、松永氏がネット上で沈黙している状況で、松永氏の言葉がBigBang氏を通じて、発せられるようになってしまった構図。

しかし、このことについての批判は、松永氏の体調不良ということもあり、すなわち体調不良の人間の「沈黙」を批判することにも通じるので、批判しない。

幾つかある気になる点のうち、私が極めて不可解に思った部分は下記のくだりである。

BB「今度(手記を)もしも公開するなら、いきなり出さないで、いろいろ複数の人にあらかじめ読んでもらったらどうでしょうか。編集者みたいに。いろんな立場の人にあらかじめ読んでもらえば、松永さんが気がつかないような部分がわかるかもしれない」
松永「うん、そういうのはあるかもしれませんね。
(太字は引用者)

BigBang氏は、提案する。複数の人が読んだ上で、松永氏が「手記」を公開することを。そして、松永氏は、否定しない。このことについては、後に詳しく書く。

さて、BigBang氏は、「編集者みたいなの」について、具体的にはどのような人物を想定されているのだろうか?いや、おそらく想定はしていないと、即座に否定されるであろうから、言葉を替える。「編集者みたいなの」は、何者になるのだろうか?

例えば、BigBang氏自身も含まれるのだろうか?あるいは、クロスチェックの大家であるミド氏であろうか?黒崎氏、鮫島氏だろうか?複数いるトリル氏だろうか?私だろうか?あるいは、

http://d.hatena.ne.jp/pr3/20070320/1174336448#c1174481966

辺りに登場する佐々木俊尚氏であろうか?新書の大王の地位を確立された佐々木氏。彼の力を持ってすれば、ネットの出来事を知らない、現実世界の「幸せ」な人々に書籍として、是非を問うことも可能かも知れない。どっかのセンセの週刊アスキー連載が、私の脳裡をかすめる。

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本題。そもそも「手記」なるものを記し公開するに際して、「編集者みたいなの」は必要なのだろうか?「手記」は、自らが書き綴るものではないだろうか?もちろん、ことの推移を見守っている人間を納得させるには、「編集者みたいなの」の意見なりは有用かもしれない。

しかし、「手記」を書き、公開する目的は何か?自らが書くという行為、そしてそれを衆目に問う行為によって、過去を清算し、再生するためなのではないのか?もちろん、松永氏が、過去を清算するという意志、また再生する意図を有していることが前提であるが。

そのような目的があるところに、「編集者みたいなの」は一体なんの役に立つのだろうか?清算なり再生というのは、松永氏自身の問題である。それに対して、彼自身の思いを「希薄化したようなもの」が公開されて、本当の再生が相成るとは、到底思えない。「編集者みたいなの」は、害悪にしかならないのではなかろうか?

「編集者みたいなの」を提案されたBigBang氏、そしてそれを否定しなかった松永氏両者に対して、私は目的を履き違えた状況認識の甘さを感じた。

(本稿以上)