けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 春らしい話

私は、ミーハーな人間なのでドラマ「風林火山」と「華麗なる一族」を連続鑑賞し、涙の海に流されたものです。後者は、最終回ということで、もちろん山場満載のクライマックスだったわけですが、前者もターニングポイントであり、グゥ!と効きました。

さて、落涙した両番組。奇しくもは、「父権の失墜」をテーマにした回であり、そこから思いを巡らせてみました。関川夏央氏に「昭和時代回想」という本があり、そこに興味深い文章があります。引用してみましょう。

やがて父は片々たる前庭に板塀をめぐらせた。廃材を貰ってつくったものだからとても不揃いで、お世辞にも綺麗とはいいかねた。しかし、なにかをつくるときの、または作ろうとあくせくする時の父は、いつもはつらつとしていた。(略)昭和三十四年、皇太子御成婚のあとでテレビを買った。それが怒涛のようなわが家の電化時代のはしりになった。なにかをつくる時代が去って何かを買う時代に移ったとき、すなわち父の時代が母の時代にとってかわられたとき、私の脳裡に父の映像が感光することも、もはやまれになった。

これは、ちょうど「華麗なる一族」が舞台にしている高度経済成長期の光景です。母なる大地の復権。あるいは社会史的には、女性の自立が芽生え始める情景ですかね?

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人は男女問わず、母の羊水の記憶を意識の底に抱いている、ということを見聞きする。そして、それが、男児が父親に抗する感情に作用するというフロイト先生がおっしゃる所謂「オイディプス・コンプレックス」なるものに繋がる、とも言われる。

果たして、そうなのだろうか?ネット世界を覗くと、50の齢を目前に控えた男性が、しばしば他界された父親について語っている。自分も亡き父と同じ歳になったとか。私は、時として、それにナルシズムを感じるのだが、自分が亡き父と同じ歳になったら同じ感慨をネット世界で綴るかも知れない。

また、他方のネット世界を覗くと、男女を問わず、誰かに父親像を投影しているのではないか?と思われる事態が見受けられるように思う。仮想空間における父親像。それは、血の繋がらないが故に理想化されたものではなかろうか?

私は、その安直に危惧を抱く。ブログ世界なり現実世界なり、何処においても、「やれ右だ!」、「いや左だ!」、「リベラルってカッコよくね?」というような政治的論争は、語られる。しかし、ネット世界の擬似父子関係。それは、語られることがなく、危険な仮想的安寧ではないかと思う。

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季節は春爛漫ですね。というわけで、本エントリには穴ぼこがあるのですが、なんとなく春らしく考えてみました。