けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 超克したコンテンツ、フェラーリ

新聞の没落、易きに流れる世界--コンテンツ価値の「ゼロ」化を防げ

このままでは紙の、そして紙でもない新聞は消えてなくなってしまうかもしれない。それを代替するのは生活者発の情報となり、それらのみが無料で流通する=コンテンツ価値がゼロになるという状態が恒常化した時代が訪れる可能性を否定できない。

ちょっと大袈裟かな。で、話は筆者の主張「フリービジネス」に混沌と進んでいく。

そう、共鳴しつつマネタライズのフローをもつ仕組みが生まれない限り、ネットのすべてがコンテンツのゼロ化という慣性に飲み込まれ、ネットにどんどん依存するようなっている僕たちの実社会の生活そのものまでが情報的な熱的死に直面し、高度なシンボルに沿った生活が崩壊してしまわないか。
(太字化、赤字化は引用者、以下同)

結論間近が、えらいことになっています。さらに、

風呂なしのボロアパートに住んでもクルマはフェラーリと、一種倒錯したかのような一点豪華主義者すら生み出す日本という文化風土にはあった。コンテンツという完成品だけではなく、その起源となった僕らの消費スタイルそのものの評価が高いのであれば、そのエッセンスを抽出し、それをうまく取り込むことで、フリービジネスのスピード感を超克したモデルはできないものか。

解読すると、一点豪華主義という僕らの消費スタイルの評価が高ければ、エッセンスを抽出し、取り込むことで、フリービジネスのスピード感を超えたモデルができるであろうよ。

うむ。「〜できれば」という仮定法と「できないものか」という反語法が結合しているところに、文章のグルグル感が香ばしく匂うのかもしれませんね。