ボタンの掛け違いから始まった生活だったと言い訳することもできる。それは、言い訳ではなくて自己弁護だ。
いずれにせよ生活に埋没していた思考が、眼前に形を伴って出現する。その瞬間、生活の輝きは消えて、残照に茫漠と浮かぶ我が身が姿を現す。
さて、ここまでで現れたものはナニとナニでしょう。答えは、思考と我が身。
ボタンの掛け違いから始まった生活だったと言い訳することもできる。それは、言い訳ではなくて自己弁護だ。
いずれにせよこれまでの生活から薄皮を剥き、新しい表皮に包まれた生活がはじまる。それは、期待していたものとは違うかもしれないし、期待以上に輝かしい生活かもしれない。
生活は現れる。ただし、生活に乗るのではなく、生活を担いで進むこと。この理解が大切。実現できなくとも、理解して頭の片隅にお供えしておく。
そんなところかな。