けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 声なき声の語りかけ

東京新聞に「音楽家の肖像」と題して、クラシック音楽家の撮影者として高名である木之下晃氏による文章と写真が連載されている。その第二回は、07年3月27日付紙面であり、取り上げられた音楽家朝比奈隆氏であった。文章は次のように始まる。

朝比奈隆が逝去して六年。今もってCDが発売され続ける。日本人の音楽家で初めて<巨匠>と呼称するにふさわしい指揮者であった。

私は、若干の違和感を感じる。「指揮者」に限らず、巨匠と呼ばれるに相応しい指揮者は、残念ながら、氏を除いて、日本国内に古今問わず居ないように思うからである。

彼は、勉強家であったそうだ。

カルメン」上演のためにフランス語を覚え、ラテン語を自家薬籠中にできるまでベートーヴェンの『荘厳ミサ』を指揮しなかった。亡くなった時、机の上には、九十歳過ぎてから勉強中のギリシャ語の辞書が置かれていた。

生半の知識で、某新興宗教の教義を語り始めては駄目だということを想起した。が、それは、横に置いて、九十歳過ぎてからのギリシャ語学習。誰のためにでもなく、ただ自分自身のためにやっていたのだろう。合理的とか、web2.0とかではなく、ただ自分自身の抑えられない知識欲の衝動だろうか。

さて、本記事は次のように結ばれる。

楽家にとって、人間としての哲学もまた重要である。それが熟成して、晩年の演奏会では、あたかも神が祝福するかのような名演が続いた。

筆者の木之下晃氏に難癖をつけるのではないが、これはいささか装飾過剰で陳腐な筆であると思う。「神が祝福するかのような」演奏。一読、首肯しながら読み流してしまう一節であるが、そのようなものだったのだろうか。

・・・音楽というものは、演奏者と聴衆が作り出すものだと私は信じている。神様が祝福する、そんなのは言葉の綾でしかないと思う。演奏者の日々切磋琢磨する技術、そして人間としての哲学が、聴衆に共鳴して紡ぎだされて響く音。それが、本当の名演奏だと私は思う。

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上記連載は、写真家木之下晃氏による様々な「音楽家の肖像」写真が掲げられている。それは、例えば、髪を振り乱して指揮する肖像であったりする。しかし、ここまで述べてきた朝比奈隆の肖像は、広口のガラス瓶に数多の指揮棒が収められている中で、その二本を手に取り、何かを考えている氏の姿だ。文章以上に、声なき声で語りかけてくる写真である。