けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 中学校の同窓会に行ってきた。

書いた。

けろやん。メモー湿気と寂しさ
ふわふわと落ち着かないところにもって、何個もイベントが入っていて、「独りじゃないんだ!」という安心・安堵感の前に、身近な人混みという濃密な「湿気」を感じて、おのおのの場面を切り取り、勝手に予期不安に陥っているという状態。

3つめにして最大の山を越えた。ふぅ・・・。中学校の時の同窓会っていうヤマだったんだ。2016年9月4日(日)14:30開始。

以下、リアジュウ(リア充)報告ではなくて、44歳を目前にしての自分が、中学校のときのみんなと集まる同窓会に参加して、何を学んだか?っていうか、正直、(43歳の)自分というものってなんなんだろう?って考えたことをメモしておこう。
同窓会。幹事さんが封書に認めた案内を同窓(同じ学年)のみんなに送るという本格的なものだった。
それがどのように本格的なものかというと、私の好きだった女の子に連絡が行き、ほぼこの会だけのために(たぶん)沖縄から新宿にやってきて!翌日に沖縄に帰っていく・・・っていう本格物。本格ミステリでしょ?いや時刻表トリック的な社会派ミステリかしら。
余談だけど、彼女とは2分くらい立ち話をして、話題もなくなって恐ろしい気まずさに包囲されて、横っちょにいるみんなが冷やかすのに乗じて、そっちに逃走してそれでおしまい。私のいつもの七癖ですね。本格をまとったガラガラの密室みたいな。
ということは横において。
参加人員は、同窓300人くらいのうちの40人くらい34人。この人数の割合を多い(とは思えないけど)ととらえるか、あるいは少ないと掌握するのか?ということに関して、沈着冷静に考えるとわからない。
これはふざけているわけではなく正直な気持ち。「40歳を過ぎたんだけど同窓会をやろう!」と考えている読者がいたら、ちょっと考えてみてね。
私たちの世代というのは、携帯電話というものがなかったから「卒業後も会おうね!」ってアドレス交換する風習(というか機会)がなかったんだ。だから「卒業後も会おうね!」が「連絡先がわからなくってね(´・ω・`)・・・」になってしまっている現実。
会社員世帯が多い地区だと連絡先が壊滅的。ほら、親の転勤にともなって「実家」がなくなっちゃうでしょ?私の中学校の学区は、二つの小学校が合併する形で成り立っていたんだけど、環境は対照的だった。
一方の学区は、自営業を営んでいたり、昔からの地主であったりするで実家(=連絡先)が存在する。それに対して、もう一方はといえば、公務員宿舎とか企業の社宅が子どもたちの大票田となっている。私が卒業した小学校は後者に属するんだけど、そんなわけで、同じ小学校組はきわめて少なく寂しかった。
ヤマ。
ヤマになった理由ってたくさんあるんだけど、ヤマを乗り越えた理由っていうのもある。書いた。
けろやん。メモーオリジナルはどこなんだよ。ホゾを噛む。
これがヤマ越えできた理由。大学生の時の同窓会報告を「盗み見」して書いたものなんだけど、そしてふざけてるようだけど、ホントは行かなかったことを後悔しているんだ。
たしかに会いたくない人間たちはたくさんいる。私の眼前に生きて立ってくれるな!っていう(くらいに私が思っている)人間たちだ。
でも、行ったならばなにかしら先に進めたかな?って思うことも少なからずある。同窓会という、きわめて後ろ向きな集まりの場所なんだけどね(って、いつものように斜に構えているんだけどさ・・・)。
さておき。同窓会報告。
一次会と二次会(の途中まで)、私は楽しく、そしてだんだん疲弊していきながらも、場を持たせることができました。場というのは私の場ということね。参加した人でここを読んでいる人はいないと思うけど、どうもありがとうございました。
ここで冒頭に戻るよ。

正直、(44歳の)自分というものってなんなんだろう?って考えたことをメモしておこう。

その後、地元で三次会をやろうという本体から離脱して、ターミナルな新宿でもう少し話そう会を私が旗揚げして店もチョイスした。
ここに私の(少なくとも)二つの性格が表出している。ひとつめは、他人が決めた大きな流れに反旗翻すこと。流れに乗せられているという思いがストレスとしてふつふつと溜め込まれていき、ある限界(この場合は二軒目まで)を超えると爆発する。
ふたつめは、お山の大将になって仕切りたがる性格。これ、私を知っている人は心底知っていると思うんだけど、見かけはそう見えない(と思う)けど、厳然と屹立している。これについても、溜め込まれたストレスが着火点となり火を噴くことが多い。
要するにわがままで自分勝手なんだな。
さておき、3軒目以降は6人くらいでテーブルを囲むという落ち着いたスタイルだったので、一ニ次回の人疲れがほぐされて、これも楽しかった。

何個もイベントが入っていて、「独りじゃないんだ!」という安心・安堵感の前に、身近な人混みという濃密な「湿気」を感じて(云々)

あとひとつを残すのみ。
これを夏休みの宴の終焉として、地に根を生やした生活を送ろうと思う。少なくともそのような生活を送るべく努力することにする。