僕らは発する言葉を持っているし待っている人がいるかもしれないんだ。

ガリガリ君を食い過ぎて頭が痛い。
最近のネット世界は、ブログとはなんぞや?ということが流行っているみたいだ。ちょっと書いてみよう。
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ARTIFACTハテナ系:ブログは「言いたいことがない人は生き残らない」
これは前に書いたね。

けろやん。メモ:生き残れなくてもいいじゃないか。

文字通り、生き残れなくたっていいじゃないか!て結論だったね。蛇足なんだけど、ここでいう生き残れないというのはブログをやめる(更新やめる)ってことだよ。
上記エントリでは触れなかったんだけど(長くなっちゃったんで)「生き残る」のに必要なのは、文章を書くのが好きだっていうのが一番大きな要素だと思うね。
文章を書くのが好き。id:kanoseさんの「言いたいことがないと駄目なんだ」というのも一理ある。でも、言いたいことがあるだけじゃ駄目だと思うよ。
なんだか偉そうなんだけど書くのが好きってことが大切なんじゃないかな?
書くのが好き。これってブログを書く人それぞれ単体のことではないよ。書く人の頭の中の話で、書くのが好きだってこと。
つまり、書くことが好きなんだ!という頭じゃなければ、書くのが好きになれないってことだ。ブログを書く人の日々の感覚で、書くのが好きだったり好きじゃなかったりってことだね。
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次は、おなじみid:finalventさんのエントリが上がっているね。
極東ブログ:極東ブログ10周年
いつものうんざり節にはうんざりだ。でも、なんか言いことを書いているね。

ブログというのは、最初から僕の意見を誤読して罵倒してくる人に耐えるメディアだろうとも思っていた。それはそれでもいいではないか。それでも読んでくれる人は確実にいる。その実感で今でも心が揺れる。

誤読して罵倒してくる人に耐えるのである。罵倒してくる人は誤読しているのである。なんかへんてこだよね。でも、ここに私のレトリックがあるので、私を誤読しないでね。

読んでくれる人は確実にいる。

はい、確実な私です。
さて、誤読を書いてみよう。

それと、すでにたいていの有名ブロガーさんがそうであるように、コメント欄やトラックバック、さらにはツイッターフェイスブックのコメントなどを遮断して、書きたいだけ書くという流儀もあるだろう。

これただの嘘です。知らない人は誤読するでしょう。でも、これただの嘘です。あるいは意図的に誤読させて印象操作している。
だって「コメント欄を遮断して」る流儀「も」あるだろうだってとか逝っちゃってる。これを読むと「おお!極東ブログは流石だ!コメント欄を解放しているから凄いよ!」って思うかも知れない。
繰り返すけど、これ嘘です。私が書いたコメントや嫌なコメントは抹殺して表示させていませんから。コメント事後承認制が大活躍しているね。
そして、これって誤読が云々とかじゃなくて、読んでくれる読者に失礼だよ。嘘を書いたら駄目だって。

それでも、炎上メディアみたいなブログは書きたくないし、自分がどうでもいいよそれと思う話題は書かない。

これも誤読を誘う一節。「書きたくないし」って書いているから、「僕ちんは書けるんだよ!でも書かないんだよ!」って、みんなは思うかもしれないよね。でもそれは誤読だよ。
みんなは「僕ちんは書かないぞ!書けるんだけど書かないぞ!僕ちんのポリシーなんだぞ!」って思うかもしれない。でも、本当のところ、あんた書こうとしても書けないでしょ?
こういうのって、他人が誤読して罵倒されるよりも、書いている自分が苦しくないのかな?とりあえず、こんなんやってたら、そりゃ罵倒されるでしょ。
書けるんだけどっていう自分の届かない能力を人に見せてたら、そりゃ自分が疲弊しちゃうよ。でも耐えているんだから凄いものだと思う。

罵倒してくる人に耐えながらブログを書いている自分はなんだかわからないけど、変わった。

こういう本音を素直に書きなよ。
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次、行ってみよう。
背徳:バカや低学歴の世界が可視化されたんじゃなくて自分がそういう底辺層と同じ世界におちたんだろ。
戦場的でなんか怖いタイトルだね。
私は、ここに書いてある意見が全て正しいなんて思っていない。でも、コメント欄はひどい罵詈雑言だらけだ。