フラットなネット世界でも言論が封殺されることもある、という話。

暑い。猛暑だ、もうしょうがない。駄洒落を言っている場合ではない。が、そのくらいしか脳が動かない。
暑いです。
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東北の話を書いていこうと思っていたら、次々と敵が現れるので困ったものです。真夏の怪談について話を書く。真面目な話です。
極東ブログ:文春の「安藤美姫選手の出産」アンケートで思ったこと
コメントを書いたんだけど公開されない。コメント事後承認制だから人為的に排他されているのか、コメントするときに入力する文字列が間違っていて、システム的に言葉が届かないのかわからない。
コメントは2回投じた。1回目はベタ打ち。2回目はテキストファイルに書いたのをコメントしたので内容が手元にある。自分のコメントを引用する。

こんにちは。話を拡散して煙に巻いているようですが。「が、修辞的に「出産を祝福しない声」を切り出すのではなく、意味は文脈から読み取るのが通常だろう。」これ違うと思うよ。なんで煙に巻きながら、無理矢理エントリを書くのかな?声がでかいだけの小飼弾に負けたくないから?彼の姑息なレトリックなんか放置しておけば?

いつもだと、ここで突撃する。コメントを承認しろよ!とか。でも今回はちがう。
さて、上記引用した極東ブログのエントリを読んで理解した人がいるのだろうか?
構成を考えてみる。まずはネット世界で話題になっているアンケートの話で始まる。正確に書くと、私自身はこの問題(ネタ)について関心がないし「ネット世界で話題になっている」のかしらない。

インターネット上でアンケートを実施し、話題になっていた。いや、話題というよりは、文春への批判で炎上と言ってもよいような光景があった。

と頭に書いてあるので、話題になっていたものと思われる。ここまでは私の無知から発生した極めて私的な話。
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さて、この話。極東ブログがわざわざ取り上げるような話題なのか?いや、わざわざ咀嚼不足のまま書く必要があるのか?要するに旬のネタだからとりあえず書いておこうということなのではないのか?そういう印象を受けた。
確認しておくけど、私自身はアンケート、あるいはその元となっている事象にまったく興味がない。なので、ブロガーがどう料理しようが興味がない。ここで、私は逃げ道を用意しているのかもしれない。
私が気になるのは、ネタではなくてその料理の仕方だ。上記で引用した極東ブログエントリ。繰り返しになるけれども、話題になっているからとりあえず書いておこうという調理に思えた。
枕詞として旬のネタを出して話が錯綜していくから。あるいは、ネタとして枕詞で利用しているだけで、旬の話題に乗っかろうという意図が垣間見えたから。
こういう書いておかねばならないみたいな無意味な騎士道精神は嫌いだ。だって、書くことで咀嚼していない話が拡散していくじゃん。
いやらしいけれども過去を晒す。
Wake Up To 鬱蒼:山形さんと池田さんの論争の覚書
これも旬のネタになっていた。そこでもid:finalvent名義で参入していたが、彼が深遠なのか無知なのかわからないけど、論争からは完全にスルーされていた。だから論破されなかった。山形に袈裟掛けに斬られなかった。
私は定期的にfinalventさんに絡んでいるが、その根底はこういうところ。旬のネタに、無知を隠すためなのかほのめかしで参入する。そして回収をしない。でも、「小さな」声をあげているんだと言われれば反論できない。
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今回はさらに複雑だ。旬のネタを小飼弾が書いて、それに意見するという形になっている。ネット世界(論壇)はそういうものだろう?いや、今回はちがう。これが怖ろしいところ。ネタを料理した小飼のエントリ。
404 Blog Not Found:あなたはあなたの母があなたを出産したことを支持しますか?
これを読んでどう思いましたか?
話は逸れる。ネット世界はフラットであるという言説があり、ある一定程度においてはそれが機能していると思う。すなわち、エントリ(A)に対して賛成を表明する、あるいは反対を表明するということが可能なのがフラットだ。
しかし、反対を表明することが不可能なエントリが存在する。それが、上記の小飼のエントリだ。
どう思いましたか?あなたは反対を表明することができますか?心の中では反対である、あるいは納得がいかないということは自由意志だけど、それを表明することができますか?

しかし、自らを生まれなかったことにする権利、以前に能力が、誰にあるというのか。

この言葉にあなたは反対を表明できますか?そして、この言葉が掲げられたエントリに反対を表明できますか?
無名の誰しもが自らの意見、あるいは主張を表明できる。すばらしい。ネット世界はフラット(平等)なんだ!。
これは幻想だと思う。そして極めて悪質なプロパガンダだと思う。みんながフラットではないのです。フラットであるという確信犯的プロパガンダ。幻想を覆い隠す意図的な宣伝。
話を戻して考えてみる。まず、小飼の反論不可能的エントリが提示される。それに対して反論するのは不可能だと「私」は思う。この点については私の小ささがあるのかもしれない。
しかし、不可能であると仮定すると、このエントリについてどう反対を表明すればいいのか?無言で表明する権利もあるでしょう。投票しない権利もあるでしょう。投票したのが極東ブログ

文春側としては、「出産を祝福する声が上がると同時に」とあるように、こうした状況で出産すべきかの是非が問われているわけではない。もちろん、この表現には、「出産を祝福しない声」も想定されている。が、修辞的に「出産を祝福しない声」を切り出すのではなく、意味は文脈から読み取るのが通常だろう。

「祝福しない声」が想定されている。しかし「祝福する声が上がる」の対立概念が「祝福しない声」じゃない。この時点ですでに修辞が発生している。したがって「修辞的にではなく文脈から」の前提がすでに修辞になって論理が破綻している。
私が言いたいのは「反論不可能的エントリ」に対して反論を表明するには、ほのめかすしかないということ。ほのめかすと書くと定型的かもしれないので言葉を変える。具象的に重箱の隅をつつくことしかできないということ。
なぜに、わざわざ重箱の隅をつつくのか?たしかにフラットに対する「小さな」意思表示なのかもしれない。そして、それを言われると私は反論を表明できない。
すなわち、反論できない言説に対して立ち向かう言説に対して、私たちはとことん無力である。私たちは二重に無力化されているのだ。詰めに詰められている。どこまで「私」は無力に打ちひしがれねばならないのか?
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論理破綻している部分もたくさんあると思います*1。言いたかったのは、ネット世界がフラット(平等)であるという言説が、悪質なプロパガンダとまで言わないけれども、幻想であるということを肝に銘じておかねばならないぞ!ということ。

*1:小飼のエントリを反論表明不可能ということを前提に字ているところとか。