けろやん。メモ

はじめまして。こんにちは。

 再発見された人

4:30起床。妖艶な朝焼けの中から、高層ビルがシルエットを屹立させている。浮かぶ雲が赤くなったりね。

昨日、出先で久しぶりにミシシッピジョン・ハートのアルバムを聴いた。

うろ覚えで書いておこう。彼は戦前(?)に「アヴァロン・ブルース」を含む数曲を「遊び」で録音した後、以前のように農作業に従事していた。すると60年代のフォーク・リバイバル期に、録音を聴きつけた誰かさんが、彼を探し始めたそうな。そして、歌われている歌詞に「アヴァロン」という地名があることから、その地を訪れて、ミシシッピジョン・ハートは再発見され、ボブ・ディランたちメイン・ストリームのミュージシャンに強い影響を与えた(うろ覚え終了)

・・・ということが、キチンと整理してwikipediaに書かれている。引用しておこう。

1923年、彼は時々、いつものパートナーのシェル・スミスの代理で、フィドル奏者のウィリー・ナムール(w:Willie Narmour)をパートナーにした。ナムールが1928年のフィドル・コンテストで優勝してオーケー・レコーズ(w:Okeh Records)で録音するチャンスを得た時に、彼はオーケー・レコーズのプロデューサー、トミー・ロックウェルにジョン・ハートを推薦した。彼の自宅での「マンデー・モーニング・ブルース("Monday Morning Blues")」を聞いて選考した後に、彼はメンフィスとニューヨークシティで二つのレコーディングのセッションに参加した。「ミシシッピ」という名前は、セールス用のギミックとしてオーケーによって加えられた。完成した盤の商業的な失敗と、不況の間にオーケー・レコーズが業務を辞めたことで、ハートはアヴァロンに戻って、小作人として人目につかない仕事をしながら地元のパーティやダンスで演奏した。

しかし1963年、録音物に影響を受けた民俗音楽学者のトム・ホスキンズ(w:Tom Hoskins)が、ミシシッピ州アヴァロン近くのジョン・ハートを探し当てることができた。実際、初期の録音で、ハートは「アヴァロン、マイホームタウン」という曲を歌っていたのだ。彼のギターの腕はまだ健在で、ホスキンズはハートに、ワシントンD.C.へ移ってもっと広い舞台で演奏を始めることを奨励した。彼の最初のリリースが世界恐慌と同時に起こったのに対して、彼の新しい経歴はおそらくよいタイミングではなかった。1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルでの花形のパフォーマンスは、新しい「フォーク・リバイバル」の観衆たちの間にスターとして映り、1966年に死亡するまで彼は大学、コンサートホール、コーヒーハウス、あるいはジョニー・カーソンの番組「トゥナイト・ショウ」で、広範囲にわたって演奏し、ヴァンガード・レコーズに3つ以上のアルバムを録音した。
ミシシッピ・ジョン・ハート(Wikipedia)

ふむふむ。

彼の最初のリリースが世界恐慌と同時に起こったのに対して、彼の新しい経歴はおそらくよいタイミングではなかった。

という辺りに、なんともいえない鬱屈とした風景が顔を出している。

・・・というような、能書きを抜きにして、ハードなサム・ピッキングのビートが胸に響いた。